2006年12月27日水曜日

Vol.83「2006年"謝"」の巻


 ブォッブォッブォっと深いエンジン音を轟かせて、ランボルギーニカウンタックが表参道の狭い道路で渋滞中。街行く人々の視線を集めるものの、なかなか進めない。黄色がやたら眩しいランボルギーニ。この渋滞をぬけたとしても、この街に、この国にランボルギーニカウンタックの似合う道路なんてあるんだろうか。
 2006年を振り返り、一番最初に浮かんだ光景。ランボルギーニといえば、僕が最初に魅かれたマシーンじゃなかろうか。子供の頃その形をした消しゴムを持ってたことをおもいだす。できれば大地と大空に囲まれて、飛ぶように走っていてほしいカウンタックだ。
 
 振り返り、他にはないかと思い出せばテレビドラマの撮影現場も思い出す。
 テレビドラマの撮影現場には大勢のスタッフがいて、それぞれの役割を果たしながら一つのシーンを撮っていく。せっかくみなみなさまのお茶の間に登場するからには、中尾諭介ここにありと、いやらしくも何かしでかせたらと思いながら、その流れの中で、決められた台詞を吐くのがやっとこさで、表参道のカウンタックだった。 
 そんな現場で出会いがあった。待ち時間に喫煙所でタバコを吸って、どうしたら面白いことができるんだろかと考えていると、農作業の衣装のおじさんが一人話しかけてきた。「君はどこの役者なんだい」「僕はバンドマンです」「ほーっ私も昔やっていたよ、バンド」「へー何やってたんすか」「ジャズをね」「へー難しそうっすね、楽器はなにやってたんすか」「コントラバス」「へー」とかいいながら、コントラバスってなんだっけ、吹くやつだっけかなぁとか頭のなかで考えている間も、おじさんは楽しそうに話し続け、“あぁこの感じってギターかついでタクシーに乗って、ゆっくり考え事したい時に運転手さんから聞かされる昔話の類だなぁ”と思いながらも会話を続けた。「へーじゃあ、ジャズ喫茶とか米軍基地とかでやったりしたんすか」「うん、やったね」「へー音楽で飯食ってたんすね」「うん、まぁちょっとね」「へー」なんつって、いよいよやってくる出番に少々てんぱりつつ、ぼんやりながめる形で話を聞いていたところ、なにやら先ほどより気になるそのおじさんのキーワード「で、その時にうちの谷がさー」“谷? メンバーの名前を言われても知らねっツーの”と思いつつ、やたらでてくる谷さんをスルーして、鈍感な僕は話を聞いた。しかし次の名前で「そしたらうちの植木が」…… “植木? 谷? 谷、植木? ジャズ?”もしかして、もしかするともしかして、僕はおじさんの話の途切れた所で恐る恐る聞いた。「あのう、すみません、さっきから谷って言ってるの、あの谷さんですか?」「え? ああ、あの谷だよ」っツーことは! 目の前におられる方は!!!! 恐る恐るに輪をかけて聞いた。「あのう、クレイジーキャッツの方ですか?」「うん、そうだよ」とニコニコとおっしゃられた。
 水戸黄門が印籠を出したときの悪代官の気持ち。様々な悪事がよぎる。なめた態度での話半分に付け加え、「どさまわりとかやってたんすか?」「音楽で飯食ってたんすか?」の暴言。ファック、ミー!! 目の前の人はクレイジーキャッツのコントラバス(でっかいベース)の、犬塚ひろしさんだった。クレイジーキャッツの音楽をまじまじと聞いたことはなかったが、クレイジーキャッツと言えば、僕のDNAには日本の音楽業界のゴッドファーザー的な存在であると認識しているので、“うわっこれで消される”と思った「すんませんでした!!」犬塚さんは「なにが、なにが」とニコニコしてた。
 犬塚さんは本当にフラットな方で、面白いことが大好きってな人だ。もしかするとアホなバンドマンをつかまえて、たのしんでたのかも知れない。農作業衣が似合っていた犬塚さんだが、打ち上げ会場では白の上下スーツで胸からハンケチを出して、一番目立って、かっこよかった。やっぱりゴッドファーザーだ。カッコつけるとこではカッコつけられる男、あの年代の粋な人って、ちょいワルなんとかと違って、怖さとやさしさを両方持っていてセクシーの域だ。背筋が伸びる。
 
 2006年を振り返るとこの話にも出てくるけど、漢字一文字にするとなんだろか………「謝」な年だったように思う。感謝の“謝”でありながら、“あやまる”と読むことのほうが多かったように思う2006だ。2007、来年は飛ぶように走るカウンタックだ。
 ノロ、風邪には手洗い、うがい。今年も下北あたりで年を飛び越えるか。
 よいお年を!
 来年もよろしくね。

 建物を壊してるマシ―ン

夕焼けと飛行機雲と歩道橋とマシ―ン

僕の愛車。カウンタックではないがランボルギ―ニ

2006年11月28日火曜日

Vol.82「流れていけたら2006年11月」の巻

 早過ぎる、一年ももう末になってる。手帳ももう買わなきゃ書くとこないやん。このタイム感、あっと言う間にもほどがある。このまま年を重ねると、このあっと言う間はますますあっと言う間になるんだろうか。
 誰かが言ってたけど、慣れていくんだって。毎日、時がすぎるたび、いろんな事が通り過ぎてくだけになるから、早く感じるんだって。
 なるほど、あるかもなとおもった。非常につまらんなと思うのは、今まで生きてきて得たノウハウをそのまま次も同じ様に使ってる自分に気付いたとき。発見もわくわくもなく、やり過ごしてる時、心に貯まった貯金であぐらをかいてる時、臆病な自分はおもしろくない。最近気付くと時間がないやら、しょうがないやらで言い訳が増えてるなと思う次第だ。大人になるっつうのはそういうことなんすかね? “オェ!”だ。

 また人づたえの話だけど、テレビでやってたのが[無常]って言葉。常に生まれ変わってて、形が無い、常に無いって意味らしい。よく聞いてきた言葉だけど、そのテレビの中の坊さんが言うと、興味が湧く言葉になった。いつかの静かな浜辺で見た月や、スケジュールをこなすだけしかできなかった時にNHKの、深夜に延々ただ流されてた川の映像をみた時に力が抜けて許されてグッときてしまったあの感じは、きっとありゃ無常的なものにふれたからやろうな。なんつって。
 目が覚めて「今日も生きてた! ありがたいこっちゃ! いっちょやったりますか!」と元気よく朝に感謝して、「今日は死ぬのにもってこいの日だ」とインディアンに習って至福の日々を毎日過ごせたらと思いながら、ある程度のノウハウとある程度の貯金でやり過ごしている、2006年末11月の33才の僕だ。

P.S. 師走だもの忙しくて当たり前。走るっぺ。

P.S.2 テレビの中で隠れんぼのコ―ナ―。
ひょんなことからこりずにまたしてもお茶の間出演。12月3日21:00~21:54。「鉄板少女アカネ」に出る予定。 みつけてくださいな。

 消しゴム買った。消しゴムってなんでわくわくすんだろ。 質感といい、みためといい、消せるとことか。
アンマ機の試乗コ―ナ―で延々と悶々とグィ~ンってやってる青年を発見した。人目も
気にせず明らかに用途が違うようだ。 甘酸っぱい感じがした。 宮崎のデパ-トにて。

2006年10月27日金曜日

Vol.81「のびてる感じ」の巻

 ドレミファソラシドを弾く。ギターの単音。指で弦を一本一本、押さえて弾く。
ドレ~~ミーーファ~ソラーシーーードォードシーラ~~ソーファ~~ミレドォーー。
 かなりぎこちなくも、繰り返していくと少しずつスムーズに弾けるようになってくる。高校一年から今までギターを弾いてきて、ドレミファを弾きたくなったのははじめてのこと。誰のライブだったか忘れたけれど、ギターリストが単音でソロを弾いてるの見て、「自分も単音でギターが弾けるようになりたいな」とふと思い、そのまま練習スタジオに行って、ギターを借りてドレミファを探しあて、でかい音で2時間ほどドレミファを弾いた。   
  気分はいつかフジロックで観たニールヤングでドレミファだ。なんつうことないことだけど、やっぱり成長というか前進というか、少しずつでも弾けるようになってく実感は嬉しいもんだ。それで、少しでも慣れてくるとドレミファに気分ものっかって面白い。ドレミファだけじゃ物足りなくなって、違う音を探して、気分の音を見つけたら、次の音を探して、みつからなかったら、またドレミファ弾いて。なんてやってるのがおもしろい。
 そういう時のイメージって、キリンとかゾウに通じるのかもなとおもった。
例えばキリンは、「あの高いとこにある木の実を食べたいなぁ」と思って思って、長い時間かけて首が伸びて、ゾウは同じこと思っても鼻が伸びてる。もちろんキリンとゾウの本当の進化の理由はちがうだろうけど、例えばの話、そうだったらおもしろい。同じ願望を抱いて、伸びてるとこが違うってのが。というか願望でどっかが伸びるというのが、おもしろい。
 願望じゃなくても、ただ手をみるだけでもおもしろい。みんな同じような形をしてるのに、みんな違う。ココロはアメーバみたくいろいろと想ってきたが、ここに宇宙でただ一つのぼくの手がある。ダメダメなこともいいことも、一緒にやってきた僕の手だ。気が付けばキリンのクビがのびていたくらいに、僕の手だ。
(余談だけども何年か前に、気が付くと肘[ひじ]から2、3本毛がはえてた。鳥肌が立った。みんなにみせびらかして笑ったけど、少年期にチ○毛がはえてきた時の「オォッ」ってなワクワク感がなく、なにかとても残念な感じが、心のどっかに吹いていた。オヤジになると耳から毛がはえるってのと同じなのか、いやっ、違う! きっと肘をついてご飯をたべたり、ほおづえついて考え事をしたりと、人より肘を使うことが多かったために、ゾウの鼻がのびた要領で、クッション代わりに神様がくれたプレゼントなんだろう。できれば羽とかにしてもらいたかったけど。いやもしかすると、この10年スター活動をしてきたから、プレスリーとか錦野あきらみたいな、腕からビラビラがはえてるみたいなスター進化説ってのもあるが、どうでもいいっか。みんなもチェックしてみてください肘毛)

 インザスープ結成10年。
 “結成10年”てのは“、ランボルギーニカウンタック”って響きと同じくらいのかっこよさだ。
 終着駅がどこかなんてわからないままでいいけど、知らないうちにどっかが伸びていて、おもろい動物になれたらいいなと思うこれからだ。

秋は空が遠くまでみえていい感じだ。
愛車のアメリカンバイクに乗っての撮影。

2006年10月2日月曜日

Vol.80「母校閉校センチメンタル」の巻


すっかり寒くなってきて、鈴虫は東京にもいるもんだなぁと、秋を感じる今日この頃。いかがおすごしか?                                   
上野の不忍池の横を歩いていたら、金木犀(キンモクセイ)の匂いがした。
金木犀の匂いがすると、高校の授業中の窓から見た景色が浮かぶ。風が運ぶその匂いに僕も宙に浮いて夢の中。センチメンタルな帰り道、あのセーラー服、ペダルをゆっくり踏んだあの感じ、何をしゃべったのか全然覚えてないけど、今年の金木犀の香りはそのころの事をおもいださせた。匂いってすげぇーな。
もしも風や匂いがなかったら、それでも生活はできるのかもしれないけど、かなり味気ない生活になるだろうな。正気じゃいられんやろな。頭の方はかなりいろんな事を忘れがちになってきているけど、こんなことがあるからやってられるんだろな。

私事ではありますが来年の三月で、僕の卒業した延岡西高校がなくなるらしい。小子化のために。これも母校がなくなるからといって、自分の暮らしがなにか変わるわけじゃないと思うけど、やっぱりちと残念に思う。
どこでもいいやってなもんで進学して、はじめは東高を志望していたのだけど、合格したらなんでか家から遠い西高にまわされていた。
今になって思うと運命のイタズラってのを非常に感じるけども、今の僕があるのも西高での三年間がかなり影響していると思う。

中学校時代から同じ野球部だった本田誠人との出会い。中学の頃は、誠人はレギュラーで僕は補欠。帰り道も違って、笑いの方向性も違ってた。補欠軍団のうちらは「じょだんよー」とか「おねっちねっこねっちねっ」とか、この世にはない……今書いてて思ったけど……文字にすると何にも伝わらないような言葉をどんだけおもしろく、おもしろい顔で言えるかに賭けていたし、誠人はいつもそばにいる誰かを相方にして、ボケて突っ込むというような知的な笑いだった。何かおしゃれな感じがすると思いながらも、「なにがおもしれっちゃろねー」と思いながら、奇声を発することにいそしんでいたから、あまりしゃべった記憶もないくらいだ。
西高に入学して、そんな誠人とクラスが一緒になり、他に知ってる顔もなく、聞けば長渕剛の同じ曲が好きだったりして、仲良くなった。弁当の時間がつまらんねってとこから始めた漫才。誠人から教えてもらって、結局みっちり三年間漫才師だった。弁当の時間から始まって、全校集会、文化祭、体育祭と、学校行事では毎回、漫才をさせてもらっていた。先生らも止めるどころか、「お前はもっとこうしたほうが、おもしろくなれるぞ」なんてアドバイスをくれたりもした。 僕はそこで人前に出て何かを発する気持ちよさみたいなものを知った。
並行して、高1の昼休みに中庭で友達から教えてもらった、音楽室のガットギターでのGのコード。
あの気持ちよさから今まで、あきっぽい僕がずっとやってる。
他にも殴られたり、けんかしたり、いいことばかりじゃないけど、そんなのもひっくるめて、やりたいことをやらしてくれて、見守ってもらい、大きなきっかけと、影響をくれた西高だ。閉校ってのはやっぱり寂しい感じだ。
そしてあと半年で卒業する、後輩のいない三年生達。自分達が卒業したら母校はなくなるが、あと半年、爆発して楽しんで旅立ってもらいたいもんだと思う。母校がなくなっても、そこでの経験はずっと残るだろうし、何年経っても、風や金木犀の香りが運んできてくれて力をくれるとおもうから。なんつって校長先生みたいなことを思いながら、少々、秋の夜長のセンチメンタルだ。
P.S.最近、黒ゴマせんべいが好きなんだけど、マーガリンつけて食べるとまたうまいです。気が向いたら試してみてください。太ると思うけど。
あと、先月からみんなの声も聞けるようになって、この連載はじまって以来「ほんとに読んでくれてる人いたんだー」なんつって身近に感じ、嬉しくおもってます。質問やらにも、わんこそば的なテンポと要領で答えられたらと思ってます。気が向いたら寄ってみてくださいな。
ではまた来月!

※ 編集部より
諭介の相棒、本田誠人くんのブログはコチラです
http://blog.livedoor.jp/m_1974_honda/ 

◆独占企画 諭介がお答え致します


■「去年までは扇風機の話、東京に来てからクーラーを買ったことがない話があったが今年はどうなのか。慣れないクーラーの暮らしで風邪をひいたのかなどとくだらない想像を膨らませている。お大事に!」(from M.Iさん)
→ あんなに毎年クーラーのこと言ってたのに、クーラーつけて寝ました。今年の夏。あんまつけてないけどね、あんまつけてないけどね。びっくりする想像力っつうかなんつうか。

■「諭介さんの夏のヒットはなんだったかなぁ。私の中では高校野球の決勝戦と蚊取線香が2006年夏のランキングのトップ争いを繰り広げてます」(from Y.Hさん)
→ 僕も蚊取線香はぐっときた。去年ぐらいから。町内会の集まりが神社であって、ござをひいて焼肉。おじちゃん達はその上にどかって座って、おばちゃん達は酒をついだり、料理をしたり、僕らはぱっと食べて、あそんでたなーってな景色が浮かぶなー。でも好きだからって一晩中つけて寝ると、蚊に効くだけあって、朝、体がだるい気がせんでもないなー。蚊取線香嗅ぎすぎ注意や。

■「ジュテームの日は、ハンカチタオル持参で汗かき、べそかき、暴れにいくよー! 楽しみにしとるけんっv(^-^)v」(from愛だろ?真紀さん)
→ うわー

■「p.s黒いサンダル、かっこいいですねっ」(from N.Hさん)
→ かっこいいやろ

■「2006年、アックスボンバーな夏を楽しみましたか?(中略)アネッサのおかげで、日焼け知らず。髪もぐんぐん伸びてます。レッツ。健康ッ☆(中略)中尾くん。大丈夫。あんたはやるほうのオトコだと。思う。よ。ほんじゃ。まったにぃー♪」(from ヤマさん)
→ アックスボンバーって、アネッサってなんかね? うん、やるほうだよ、やる時はね。やらない時のほうが多いきがせんでもないけど。やるほうよ。あとうちらのパンチは後から効いてくるからね、気をつけて!

■「今夜はガリガリ君をかじりつつU2を聴いています(笑)。このエッセイは諭介さんの「お気に入り」も紹介されるので、それも興味深いのです。しばらくお会いできずにいますが、インスーを聴きながら目指すところへ向かって頑張ります。相乗効果でいたいですね。それでは、また!」(from オリオンさん)
→ 嬉しいね、反応があるっつうのは。相乗効果や。

■「そろそろ夜も涼しくなり、金木犀の香るいい季節ですが体調の方崩されない様ご自愛下さい」(from N.Yさん)
→ いいよねー金木犀。

■「中尾さんってルパン三世の“石川五ェ門"に似てますッ!」(from ヤマさん)
→ ぼかぁルパンがいいです。あの細い足首にすね毛がいいです。でも石川五右衛門でもいっか。

■「私は新しい生命を授かり、しばらくライブから遠ざかっていますが、胎教にインザスープを使わせていただいています。きっと元気な子が生まれてくれますよね」(from まりさん)
→まじかいな、すんごいね、インザスープは胎教にいい! 宇宙バンドやからね。ハナタレっぱなしの元気な子が出てくるよ!

※ 編集部より
みなさんからのメールに、お返事を書きたい!と諭介が言い出しましたので、一部ですがここに公開させて頂きました。次回から、ここにメール内容とお返事を公開されたら困る!という方は、ぜひお送り頂く文末にその旨を記してくださいませm(__)m  
おお カッコイイ。 平成のインディアン、ゆうすケンディアン。
(フォトBy大久保海太 )

2006年8月26日土曜日

Vol.79「ふるさと」の巻


 ギンギンギラギラ太陽焼いて、アスファルトからのモアンと熱気に、酸素不足の金魚のように口をぱくぱく“あちーあちー”。
 で、ここ何年かで久々の風邪だか熱中症だかわからんが、体がだるい。「バカは風邪ひかん」と言うから、風邪気味な自分にどこか少し安堵もして、ぼんやり 頭に輪をかけて、ぼやーっといろいろ眺めてみる今日この頃、いかがおすごしか。
 残暑お見舞いもうしあげます。
 最近、頭の中でよく眺めるのは「四万十川」だ。行ったこともなく、どこにあるのかも知らなかったけど、前にテレビでみて、いつか行きたいなってな場所 だった。名前にも惹かれるし、テレビでみた時に感じた優雅さや、手長エビがわんさかいるところが、いいなとおもった。 
 行ってみたい、来年の夏は四万十川だ。
 エビは実家、延岡の川にもいたが、台風が来た時にみんな流されていなくなった。ぴたりといなくなった。不思議なくらいだ。それまではわんさかいて、アミ ですくって、それをえさにして釣りをした。川にえさを投げ、竿をたて、竿の先に鈴をつけて魚がかかるまでエビをとってた。小さなエビに混ざって、手長エビ もいた。
 夜になると目だけが光って、川の中には光る点々が気持ち悪いくらいいた。たった一つの台風でエビがみんないなくなるなんて、不思議だ。四万十川に行ったのかもだ。
 ついでに、昔は田んぼがひろがってのう、夏が来るとポンプ小屋が動いてドドドー!って水を流して、そこにはカニが気持ち悪いくらいいたもんじゃ。ソフト ボールの練習の後そこまで走らされて、ぜいぜい言ってポンプ小屋からの水に頭を突っ込んで、その気持ち良かったこと。カニはみんな笑ってるような模様が甲 羅にあって、笑いながらカサカサと、逃げたり隠れたり。笑ってんじゃないよと思いながらも、いつもそこにいてくれると嬉しかったもんじゃ。
 去年の今頃は実家の友達やらと川で遊んだんだなー。みんな子供連れてきて、口から水を噴出しながら泳いで「噴水マン!」とか言って。
 おぉ! 来年の夏は噴水マンだ!
「ふーるーさーとぉー」だ。
「ふるさと」的な気分は、育った場所だけじゃなく、「懐かしい」や「センチメンタル」ってなものだけじゃなく、心にあるなーと思う。例えばライブの最中な んかに、とてつもなくその空間、音、人、がたまらなくなる時なんか、そんな感じだ。うまくいえないけどそんな感じだ。
 マイクがあると「アイラブー!」と、このカタカナ英語に、溢れてよくわからんその気持ちをたくし、伝えたくなる。
 ずっと会っていなくても、ふとした時に思い出す気持ち。ふとした時に初めてきづく気持ち。あのポンプ小屋だって、カニだってエビだって。
 人や景色、音や匂い、そのライブに包まれたとき。そんな「ふるさと」たちがいてくれるから、またどっかへ行けたりするんだろうなと思う。ぼんやり頭のこの頃だ。 

 2006東京の夏を歩いた黒いサンダル。 かっこいい
 この夏、身を守ってくれて懐かしい匂いをくれた 蚊取り線香。
それにしても 甲子園すごかった。 甲子園はいつも夏を暑くしてくれる。

2006年7月31日月曜日

Vol.78「あちぃ」の巻



 あちぃ~むしむしする、もあんとする東京の夏だ。アメリカの乾いたアツイ夏に飲んだペプシがうまかったな~なんつって、あれもあれで乾きすぎて唇切れてたから、湿気も役にたってるんだなと、ファンタグレープって意外とうまいことにきづいた今年の夏だ。おーい

 夏と言えば冒険だ!っつうことで、ジョニーデップが出てる「パイレーツオブカリビアン」を映画館に観に行った。海賊の話だ。が大人気で席が一番前しか空いてないという。一番前でも同じ料金だし言うほど観れないこともないだろうと思っていたら、かなり観づらかった。プラネタリウムだ。ずっと上みっぱなしで疲れた。字幕みて、表情みてがひと苦労で、戦闘シーンなんかはなにがなんだかわからず寝た。が、映画自体は面白そうだったので、レンタルビデオ屋で「パイレーツオブカリビアン」のⅠを借りようとおもうも全部貸し出し中だったので、「スーパーマン」を借りた。

 なんだろか。僕の中で「スーパーマン」「スターウォーズ」「ジョーズ」あたり、無条件で降伏だ。かっこいいっつうか、燃える、ドキドキする。ものごころついたときには、ディスイズ映画だった。今見ると随分ハリボテにみえたりするけど、「すげぇーなすげぇーなこんなの作れるアメリカってすげぇーな」って感じてた感じはこびりついている。
(スーパーマンになりたかった。小学校2、3年頃までは、早く走れたり、ドッチボールがちとうまかったりして、スーパーマンになれるかもと思っていたが、高学年になってくると、意外と無理かもなと気付きはじめて「タケちゃんマン」方面に傾向して「ナカちゃんマン」と帽子に書いてたことを思い出した) 

 立ち読みをして読んだ小林よしのりって人の漫画。全然しらなかったA級戦犯の事。東条英機ってひとの事、アメリカの事。戦争に勝った国が負けた国を裁いた「東京裁判」。かなりアメリカの傲慢な裁判だったことが書かれていた。戦争を正義だと名して今だに同じようなことをしているアメリカ。「こんなことやらかしてしまうアメリカって怖いな」だ。(小学校の頃、国語の時間とかってやっているのに、授業を受けているみんなのTシャツには英語が並んでることに違和感を感じたことを思い出した。)

 あそこに書かれてることの全部を丸のみするわけではないが、自分の暮らしてる国の昔やら、なんで中国やら韓国が怒ってんのかとか、もうちっと知っといたほうがいいかもなと思った立ち読みだ。
 なんてこと思いながらもこの暮らしの身の回り、まわりの人がいて自分がいての世界でも、気付かずに、自分の傲慢さで他の誰かをきずつけたりしてしまってることもある、それに気付いた時は自分が不自由になったりすることがある。なるべくなら理解すること、尊重し合うこと、受け入れること。例えば「戦争」につながるだろう自分の感情を感じたら、自分で浄化できるような水平線、人間になりたいとおもいながらも、いっぱいいっぱいになると「なれるわけがねぇっぺー!」とひらきなおる自分もいたりしてミジンコハートだ。なんてぐじぐじ書いてるとキンチョールのじいちゃんから「お前の話はつまらん!」と怒られそうなのでやめる。

 もうすぐ梅雨明けだ。胸に「S」のマーク! ビルの谷間をぬけて、カワイコちゃんを助けに飛んでいく! 電話ボックスで着替えたらすんごいんだぜスーパーマン!だ。 


 これといった写真がなかったため、納涼ガリガリ君。
 しんやり
 しんやり
 当たるかや?
ざぁんねんっ! また今度!

2006年6月30日金曜日

Vol.77「祝33周年!」の巻


 梅雨の合間に来た真夏晴れ! あとは蝉やら入道雲。太陽はジリジリ腕や顔を焼いて、体は汗を流します。あちーあちーってうなだれることもなく、なんだか味方につけて、今年初めての夏日和に気分がいかった。来たねー夏! いかがおすごしか。
 
 おかげさまでオイラも6月で33才になりました。すくすく育ってます。33。
 長島監督の背番号だ。なんかいい感じがする。
 自分へのプレゼントはクレヨンを買った。商店街を歩いていると「こんな所にあったっけなぁ」ってな文房具屋さんを発見し、そのやる気の感じられない店構えが気になって中へ入った。とてもスタンダードな文房具しか置いてなくて、わかりやすい。
 ふとクレヨンが欲しくなり、店員のおじちゃんに「クレヨンありますか」と聞くと「あーっクレヨンはないねぇ」と、やる気なさそうに答えた。ちとがっかりして「あぁそうっすか」なんて振り向くと、そこの棚にクーピーに混ざって一つだけあった。手にとりおじちゃんに渡すと「あぁクレヨンあったね、クレヨンあったなぁ、あったかぁ……」なんて、ぶつくさ言いながらレジを打つ。
 何はともあれ僕はクレヨンを手にいれた。 
 何かが描きたかったわけでもなかったけど、クレヨンを手に入れておくのは何かと気分がいい。
 クレヨンを持つ前と後では気分が違う。絵は苦手だけど、クレヨンをもつのは気分がいい。いろんな色があるし、なんでも描けそうになる。描けそうになるけど、いざノートに向かうと何描いていいかわからず、クレヨンの匂いをかいだり、色を眺めたり。
 ……しているうちにやっぱり描きたくなって、ノート見てたら、線が見えた気になったので、黒で線を引く。そんな感じで完成形のイメージもないまま、ただノートが「ここにあの色で線描いてみな」ってな声をきいて一つ一つ描いてみると、人の顔に見えたりしてくる。人の顔に見えたからって、人の顔にしようとしないで、ノートの声を聞く。するとわけわからんけど、気分がいい。クレヨンの感触もいい。結局ぐちゃぐちゃになって、嫌になったけど途中おもしろかった。
 お薦めします。クレヨン。上手くとかメッセージとか誰かに見せるとか、なんもかんも関係なしにしたところで描く絵。自己解放だ。 
 33年。いまだ思春期、あぁでもないこうでもないと、ピンボールのように右往左往しながら生きてます。30も過ぎれば大人になってゴルフでもやって悠々と過ごしているのかしらと、なめたことおもったこともあったけど、選んできたのはピンボールや。年とるたびに「あれは、あぁいうもんで、これは、こういうもんで、あぁなって」って、勝手に決めつけたり技を身につけたりするけんども、それにしばられたりもする。
 そんな中で、そんなものをとっぱらえたり、新しいものを作れたり、発見できた時がやっぱり僕の喜びだ。大袈裟に考えていたことが、大したことなく思えたり、見落としてきたことが、大きなものにかんじたり。探しながら、まちがえたり、許されたりしながら、これからもこうやってすくすく生かさしてもらうぜ!と、いろんな色を塗ったくったろう!とおもいます。

 33才の誕生日、たくさん「おめでとう」をもらって嬉しかった。心強く感じる。力が湧く感じや、燃えるぜ33。生きて歌って燃えて、お返しできたらとふつふつと思う僕の33周年。これからも33のハナタレではありますが、どうぞよろしく!だ。
 
P.S.「おめでとう」をありがとう 
                  33周年 中尾諭介。

 懐かしいペンテルのクレヨン
 懐かしい匂いだ
 力いれすぎてポキッ!
それも懐かしい
そんな感じで誘われて描いた33才の落書き。

2006年5月29日月曜日

Vol.76「2006年5月最近のニュース」の巻


 ッンビカッ! バリバリィッ! ドォーン!! カミナリィ激しく夕立ボーボー、横殴りの雨ん玉、針刺すように顔叩く。
 ッンビカッ! バリバリィッ! ボーボーバチバチ! 埃立った道路を街を人を、んでこの頭ん中を叩いて冷やして洗い流す。
 買い物や約束や仕事やらの帰り道、それぞれにそれぞれですれ違う人達がいっせいに雨に濡れ、いっせいに走りだす。運動会だぁ、夕立の。 
 笑いましょうよ、はしゃぎましょ、雨に濡れて踊りましょうよってな気分で僕も雨宿り。
 
 向かいのマンションの管理人のじいさんが、雨の中傘をさし玄関先でしゃがんで、なにやら足元に手を伸ばした先に、でっかいかたつむりだ。じいさんはかたつむりのからをちょこんちょこんとノックして、立ち上がり見守っている。かたつむりはかたつむりのスピードで玄関先を横断し、じいさんの肩はがんばれがんばれと言ってるみたいで、なんだかおもろい気分になる。 

「こんな山の中に絵本を読みに誰も来ないよ」と言われてから10年。
 宮崎県の木城ってとこの、山の中にある「絵本の郷」が10周年だ。
 はじめここは町おこしの宿泊施設としてつくられてたところに、版画家のいくともさんがアイディアを求められて提案したのが「絵本の郷」だったという。町おこしの人たちは半信半疑だったらしいけど、いくともさんの思いつきが10年ゆっくりと歩み進んでいることを嬉しくおもう。ついでに館長になっちゃったいくともさんは、絵本の郷にいくまでの山道に絵本のタイトルからとった名前をつけて標識をだしていたり、池の上にステージを作ったり、演奏者をよんで山や空やカエルや人に響かせて遊んでみたりと、いろんな仕掛けをつくっては町おこしというよりも「地球おこし」「宇宙おこし」「人おこし」をしてるんじゃないかとおもう、ってなこと書いてると、「いや、いろんな仕掛けに人をひっかけるのがおもしれぇだけよ」と笑って言われそうやけど、いくともさんはいろんな人の心にかたつむりを這わせて遊んでるんだとおもう。
 前にも書いたけど、インザスープもライブをやらしてもらったことがあった。たくさんの絵本の置いてあるその部屋を、いくともさんやスタッフの方々がコンサート会場にしてくれた。絵本とお客さんに囲まれて僕らは音楽を鳴らした。
 そのコンサートの途中でいくともさんが「この絵本を読んでみて」と「だくちるだくちる」という絵本を持ち出してきて、僕は読み始めた。
 本を両手でもって表紙をめくる。
「むかしむかし」
 ページをめくる。
「イグアノドンがいた」
 いきなりイグアノドンがでてきて笑ってしまったので、始めからやり直して読み進んでいくと、いつのまにか僕はイグアノドンになっていて、「だくちるだくちる」と歌っていた。
 メンバーも音楽を鳴らし火山になったり大地になったりして、僕らは宇宙の中にいた。
 いくともさんはよく「証拠を残すな」っていうけど、あのライブはずっと心に残ってるな。恐るべき絵本だ。絵本は少ない言葉の中で、きづかなかった気持ち、自分がいることを教えてくれておもしろい。
 これからも何十周も何百周も、宇宙を巡っていくんだろうなとおもう絵本の里だ。10周年おめでとう!
  
 最近おもうのは、おもろいとおもうことや、やりたいとおもうことの気持ちは大人になっても変わらんもんやなぁってこと。大人になると、っつうか僕のことだけど、変な勝ち負けが出てきたり、頼まれてもないのにあせっていたり、すけべな気持ちがでてきたり、失望したり、臆病になったり、疲れたり、愚痴が細かくなって増えてる気もするけど、おもろいなっておもうことはあんまり変わらんね。
 全部を一笑できるおもろいことを!っておもわせられる2006年5月、最近の世間のニュースばかりだ。あの管理人さんやいくともさんのように、自分のかたつむりをゆっくりでもしっかりと這わして生きていけたらと、そんなかたつむり達がもっと広がっていけばといいとおもう僕の2006年5月今日この頃、ッンビカッ! バリバリィッ! ドォーン!!だ。
    
 P.S.いくともさん(黒木郁朝)の版画もいいよ。

 ヨ-ダみたいな犬発見。ずっとこっちみてる
聞いたらまだ生まれて間もないんだって。生まれた時からじいさん顔だ。

2006年4月27日木曜日

Vol.75「2006年春 心ん旅」の巻


 春雷ゴロゴロザ―ザ―雨降り、かとおもえば太陽の陽が照ったり曇ったりしながら天気は時々によってかわって、気がつきゃ僕の気分も随分と左右されてるなってな天気も気温も変わりやすい今日この頃、いかがおすごしか。
 前回同様今回も携帯電話からポチポチとこの文章を打っているんだけど。こんなちっちゃな画面から手軽に親指だけで、しかも足なんか組みながら、いいのかしらとおもいつつ、手軽さにかまけてポチっとな。
 インターネットやこの携帯のうまい文字っつうのは、なんだかちゃんとしていてちゃんとした人間になれたようで、そりゃそれでいいもんです。が、やっぱへったくそでも自分の字で書くのも好きです。みなさんはどうですか。最近月に一度くらいずつ一人で弾き語りのライヴなんかやってますが、そんときに回覧紙って新聞みたいなのを昔懐かしく書いてみたんだけど、結構おもしろくて。「だめやな~へたくそやな~」とおもいつつも書きたい事書いてるうちに、落書きみたいなのも自分だなと飲みこめたりして、心が少し落ち着いたりします。毎回この連載も、ポチポチ文字とはいえ、そういう時間ていいもんです。時間がいくらたっても、手紙を書いたり何かつくっている時間。記号や言葉やらの情報に「へ~へ~」なんて言ってるうちに自分より溢れすぎて、溺れてるのにクリッククリックで「もっと頂戴もっと頂戴」で、情報中毒になりかねない時代っつうか僕。そんな「へ~へ~」な記憶より、自分で手紙書いたりなんかつくったり汗流した記憶って、体のどっかでずっと覚えてくれてるもんだとおもいます。旅と似てる気がします。
「もっと頂戴」だけじゃいけないとこへ。そこが近所でも遠くでも自分を開放する旅。情報で散らかした頭ん中や、目をふせてた不安事や、いつのまにか自分を縛りつけてた約束事や意地や、そういうもんが少し溶けて、水平線の上を歩いてける気分。考えなくたって、体の記憶がまた次の場所へいざなってくれるような気分……ってわかっていながら、テレビにもぐって「もっとわらかして! お笑い芸人~」とリモコンポチポチやってるのも好きやけど。
 自分でも気付いてなかった自分に出会ったり、そのままの自分が出たり、願いだったりした想いが、形になってポツンと生まれて。それみてガッカリすることもあるけど、それを伝えたいと、渡したいと想える人がいるってことはやっぱり幸せっつうか喜びっつうか嬉しいことや。そんな時間だけで旅していたいとおもうけどね。

 五月八日は新宿ロフト~ヒ―トウェイブ兄さん達とロフト三十路を祝うライヴがあるんだけど、ギター一発っ! 歌一発! ドラム一発!の一発一発の集まりが力強くてかっこいいバンドで。インザス―プはもちろんやけどもちろんやけど、ヒ―トウェイブカッコイイよ。みるべしっ!よ。

P.S.
今年の春はやたらとチュウリップが鮮明にたくましくみえます。 こないだ名古屋で見た時から。んでチュウリップって、空にむかってキス……というよりはチュウしてるクチビルに似てるからチュウ―リップって名付けられたのかなとおもったんだけど、違うやろな。ちとやらしくなっちゃうかな。そういうことにしとこうとおもいます。春だし。

<kokopelli=古代インディアンが残した岩絵に多く描かれているカチナ(精霊)のひとつ。ココペリが笛を吹くと、大地から緑が吹き出し、花が咲き乱れ、木々は生い繁り、花粉は風に舞い飛び、動物たちは次々と子供を産み落とす……ココペリは、発芽と豊穣の神的存在と敬われている。またメキシコでは、音楽を司る精霊として崇められていたり、またまた子宝の神様ということから女好きな神様という説も有るよう>……が、僕の肩に宿ってました。

2006年3月28日火曜日

Vol.74「世界一ビリビリイナバウア」の巻


 さくら、さくら、まだか、まだか~、まぁだだよ―ってな今日この頃、いかが? おすごしか。
 日曜日、小学校の運動場では少年野球の試合がおこなわれていて、フェンスごしに見た。やっぱりどっか自信満々にみえる少年野球。やっばりね、世界一の野球国日本だもの、あんなに世界をもりあげたんだもの。審判や監督、コ―チ、大人たちの声も自信満々だ。ストライック! まわれまわれ! みっつ! みっつ! みっつ! ナ~イスバッチン!! 砂埃の中、 ナイスピ―! かっこいいな野球少年。 ちと前まではサッカーにグラウンドとられて、端においやられてるようにみえた野球。今、王監督やイチロー、選手達の今までの野球へのまっすぐな気持ちが世界一っていう最高の形になって、それが少年野球にも伝染している。世界一になったのは僕ではないのに、フェンス越しに僕にもビリビリきている。他の誰かのまっすぐなビリビリに震わせられる。かっこいいんだ。
 自分にはなにがあるのかはさておいて、確かなビリビリ。僕のなかの踊り子が元気になる。イナバウア―をなんども決めて輝いてくる。それですぐになにかが変わるわけじゃないけど、とても大事な気持ちにおもえ、ありがたくおもえる。誰の心にもいるビリビリな踊り子は、そんな気持ちだけでおどってるんじゃなかろうかしら。捕まえられそうで捕まえられないけど、たしかにいる踊り子。捕まえられないからもどかしくもあるが、また走らせてもらえる。踊らせてもらえる。
 音楽もそうだ。ビリビリだ。そんな気持ちにさしてくれる音楽はたくさんあるが、ここ十何年僕のCD棚の一番いいとこ、クリーンナップを打ってくれているひとたちがいる。そんななかのひとりにヒートウェイヴというひとたちがいる。 十何年前、レコード屋さんで聴いてからずっとだ。そればかりを頻繁に聴いてきたわけじゃないが、いざというときそこにいてほしい音楽だ。僕の中の山男が震わせられる。ビリビリきすぎて車運転、停まってる車に突っ込んで事故ったことがあるくらいだ。いけないビリビリだけど、そんくらい山男が踊らされたりする音楽だ。今もまっすぐにビリビリをくれるヒートウェイヴの山口洋さん。トロフィーはないけど、この人も世界一の人だ。 んで! そんなヒートウェイヴとライヴできることにあいなった。その瞬間ビリビリだった。しかし一緒にやるっつうことは、当日はライヴあんまりみれないのに……なんでビリビリかっつうと、やっぱ同じステージでちっとでももらったもん返せるかもしれんなというおもいだ。
 五月八日新宿ロフト、そんなヒートウェイヴとインザス―プの夜をみんなにみてもらえるのがたのしみだ。みにきなさいよ。
 それぞれみんな世界一になれたらいいと思う夜だ。

 向こうにみえるが世界一のヒートウェイヴの山口さん隠し撮り。ロフト打ち上げにて
向こうにみえるが世界一のギタリスト松田文さん。んで手前にみえるがこれまた世界一のイナバウアリスト、シオンさん

2006年3月22日水曜日

Vol.73「三月の梅の巻」の巻


 ぽつりぽつりと梅の花咲いて枝、枝、枝に赤、赤、赤やら白、白、白。
じいさんばあさん、それを見上げちゃ歩いて見上げ、がきんちょ達が走りまわって塀にのぼっちゃ飛び降りて、豆腐屋ぱあぷぅ~ラッパを鳴らす。カブトムシや蝉の幼虫は、もんぞとなんだか土の中で予感を感じてるんだろか。
春がきますよ 。
世田谷羽根木公園。
ゆっくりゆっくり進んでくもん達の夢だ。
なにやら予感に誘われてゆっくりゆっくり進んでくもん達の夢だ。
そうやって今があるんだぜって梅の花。
つぼみの時代を過ぎまして、花がふわりと咲きました。冷たい風や雨に流されて流されて流されても落ちなかったつぼみ達がみせてくれた夢だ。
花粉でボンヤリした頭で、んな景色を眺めては、あのじいさんばあさんガキンチョにはどんなつぼみがあんだろかとふとおもう。んで自分はどやろかと足元眺めるが、梅の木の根元とくらべるとなんとも頼りなく根元がふわりで、あ~あとまた遠く見て一服。
梅がキレイだ。次は桜の番だ。

あせるな、あせるな。ゆっくりゆっくりって言ってる間においてかれるぞって、かまわんどうぞ、おいてって。 忘れた頃に咲いてるわ。宇宙で一人の、人間だ。 のっしのっしといけばいい。カタツムリのスピイドで、のっしのっしといけばいい。土星のわっかでカタツムリ。波紋の揺れを感じます。

本当のことはいつかわかる。だからあわてず口をつぐめばいい。とかいいながら、口は今日一日を嘘で補修したりして。 なるべくなら本当のことだけで、惑わすことなくいけたらいい。のっしのっしといけたらいい。
って、んなこと、おもった三月の梅がキレイ。

血管みたいでかっこいい

2006年2月1日水曜日

Vol.72「2006年1月」の巻


 2006年 明けました 僕は新しい携帯を買った。今までの奴はメイルが届かなかったり、つながらなかったりと不便なことが多かった。海外でも使えるっつうことでいつなんどき海の向こうへいきたくなるかわからんからと一年前に買ったばかりだったが結局いかずじまい。
 さすがのアメリカ製品でその日の気分でメイルを受け付けたり、受けなかったりされるもんだから、連絡事項も伝わらず非常に困った。はじめは外車みたいで、かわいいやっちゃとおもっていたが、この不確かなメイル時代にこりゃ使い物にならんとかえたしだいだ。
 しかしこの携帯会社、某ダフォン。人にもよるんだけどその日僕が受けた人はサービスが非常に型どうりで数々の不具合を並べた所、「アメリカ製品ですのでねぇ」とまるで他人事でもどかしい。悔しくなって「人としてみたいな所で携帯としてこれはおかしくないですか」とよくわからんことをならべてもスマッシュでこうきたらこうかえすを繰り返す。携帯会社だからといって人の口からも電子文字が飛び出さなくてもいいんじゃないかしら。なにをもとめていたわけでもないが、その人の前で僕がベルトコンベアの上にのっけられてたのがつまらなかった。
 クレイムはだすのもうけるのも不得意だ。んが僕がこの人の立場だったらかなりの流れ作業になってる確率70%くらいはいってんなとひき続きこの携帯会社から買った。
 
 2006年1月 サービスでおもいだすのは本屋さんのブックカバー、これいるかね。「カバーおつけしますか」とレジで問われる度に2つの絵がフラッシュバックする。1つは田舎の山々木々木々やら禿げた山。2つめは中学の弁当の時間。弁当をフタで隠して食べる女子。かわいさや恥じらいとは違うところに胸がキュンとしたあの絵だ。電車の中はあの女子中学生がたくさんだ。
 推測するにブックカバーの必要性は、大事な本の表紙を汚したくない、何読んでるか見られたくないってことだろう。前者、なら表紙は家で保管しとけばいい、後者、おもってるほど誰もあんたのことみてませんからーー! 残念っ! グリーングリーン いつまでも木々達に歌ってて欲しいカバー斬り!ってどうして今頃波多陽区。「おつけしますか」「あ、いいです」拙者、2006年1月、男らしいことしたっておもえたのこれぐらいしかない毎日ですから 切腹!
 2006年なんでもない日。ふと気持ちが軽くなったことがあった。ぽつんとしていると勝手にそうなった。
 遠くの街や人、匂い、今ある近くのものや景色、全部で自分だと実感できたときそれはとてもあたりまえのことでただそこにあった。 
 自分の足りない所、ポッカリ穴ばかりみすぎてたのかもしれない。
 自分のポッカリ穴だけをみてるとポッカリ穴はどんどん大きくなるばかりでそれだけの世界になってしまう。自分ではきずかなかったけど、みかねて天使が肩に手をおいてくれたんだなきっと。ちょっと前にみた映画「ベルリン天使の詩」な感じで。 
 2006年、そんな天使ともっと仲良くなりたいもんや。
             おわり