2012年6月26日火曜日

Vol.149「いくつになっても恥ずかしサナギ」の巻

雨を喜ぶみたいにボンボンボンと紫陽花咲いて、水色やらピンク、紫で街を彩ってくれてる今日この頃、いかがおすごしか。
おかげさまで、ハッピバースデイ梅雨、誕生日を迎え晴れて39才となりました。
おっとビックリ。自分がもう40歳だなんてこれ、直前になってやたらと実感が湧いてきたりして。確実に年はとるもんですね。それだけは着々と進行中でありますが、何故だか年を重ねることにも何か面白味を感じたりしてきたのも事実。

自分が思ってた40のイメージと随分感覚が違うもんだなぁと。これでも40になれるのであれば、このままいちゃいましょうと開きなおりのような気持ちにもなったりして。
きっと誰もが、ほーこんなものかとおもったりしたりしてるんじゃないかしら。どうなのかしら。逆にどんどん身軽になっておもいついたことを実現していけたらとおもう次第です。

また、ハッピーなバースデイをメールやら電話やら、コメントなどで祝ってもらい、自分は幸せもんであるなぁと、こころ膨らみ心強くもおもい、ありがとうって言葉だけでは足りず、くっそーって気持ちにもなり、感謝パワーでいけるとこまでいって、そこで「愛してるぜこのやろー!」と叫びだしたい気持ちにもなったりして。
ともあれ、やれることは内側から一歩ずつやっていけたらとおもう次第です。

最近おもうのは、バンドっていい小社会やなぁってこと。インザスープもまた動きはじめニックバッカーズもやってるわけやけども、どちらもなんだかメンバーに対してありがたやって気持ちが増えてきたりして。夕方まで一緒に遊んでた友達に「バイバーイ、遊んでくれてありがとねー」なんて言わないのと同じで言ったりはしないけど、よく考えてみれば、一緒に音出して一つの宇宙をみるってのはこれは奇跡的なことやなとおもう。
やっているといいことばっかじゃないし、うまくいかんなーとかももちろんあるけど、自分の足らないとこを教えてもらったり、知らなかった自分をひきだしてもらったり。みんなで超えていって、一つの感覚を一瞬でも共有できるってのは、大袈裟なはなし、世の中自体がそんな関係性になっていったらおもろいのになぁっておもうほどです。
メンバーに対して尊敬だったり感謝だったり、基本そんなものの上に成り立ってることをわすれないでいたいなとおもう。やってる最中は、バっときたらドカン的なもんであるけど、ふと一人の時とかにそんなこと考えたりして。
「我」ってのを自分はあまりもっていないつもりでも、おもえばあれはただの我が儘だったなとか、自分の器量の狭さで理解できずに壊してしまったものがあったり、もっと大きくいられたらよかったと気付かせてもらったり。
本当に振り返れば、申し訳ないことや恥ずかしいことが多いけど、たぶんそうやって繰り返していくんだろうなとおもう。感謝やら尊敬やら、いつでもできるわけじゃないけど、基本をわすれないで、どんどん膨らましていって、いろんなことキャッチできるようになれたらとおもう39才のアンテナであります。

バイザウェイ、恥ずかしさといえば、先日、横断歩道を歩いていたらば、向こう側より少年とお母さんが渡ってきて、二人は手をつないでおり、少年は片方の手をピンとあげて横断歩道をわたってた。その手のあげ方がものすごくピンとしていて、手につられかかともあがり顔も上に引っ張られてるかのように引きつっていて必死だった。
まだ幼年期から少年に変わる頃だとおもうのだが、ものすごくまっすぐ一生懸命。

言われたことを忠実にやろうとしてるのか、お母さんにほめられたいのか、お母さんを守りたいとおもって、そうなっているのかはわからない。単純にそうなってるだけなんだろうけど、なんだかとても微笑ましくみえて僕の顔はゆるんで、すれ違う手前で彼のあまりの必死さに小さな声でハハっと笑ってしまった。
それで彼は僕に気づいた瞬間にハっとなり、すれ違った後より大きな声で「タクシー!タクシー!」と叫びはじめてお母さんに「何言ってんのやめなさい!」とたしなめられていた。
僕は振り返りその風景を見ていたが、彼は「タクシー!」をやり続けていた。
それをみながら僕は、笑ってしまったことを悔いた。きっと彼は知らない人に笑われたことが恥ずかしくなって、そうなってた自分が猛烈に恥ずかしかったに違いない。もう少し幼ければそんなことはお構いなしにピンとすることだけに没頭していられたのだろうけど、サナギの季節だったのか、自我が芽生え「恥ずかしい」というものを知り始めた頃だったのだろうとおもう。
そこで瞬間的に「タクシー!を呼んでいる俺!」に転換したのだろう。
ただの深読みかもしれないが、こんなに年も離れているのに、そこは男同志の何かを感じとった。自分にもそんなことがたくさんあったからか、なんとも言えない気持ちになった。
(小学校も高学年になったり、中学校になったりすると、一生懸命が恥ずかしくなる風潮があった。思い出すのは運動会などで行われる全校ダンスで盆踊りなどを踊るわけやけども、みんなダラダラおどってる中で、自分だけ手の先までピンとはって真面目にやってみたことがあり、それは気持ちのいいもんであった。)

しかし、あの少年はひねくれたりしてないだろうかと気になったりして。んが少年よ、これから先、たっくさんあるぞ、39才になってもあるぞ。多分ずーっとやぞ。あと少年、恥ずかしいって思う部分は人それぞれやぞ、笑われないようにだけ生きてもつまらんぞ。逆に恥ずかしいってこともあるぞ。自分がいいとおもったらやっちゃおうぜ。ピンとやっちゃおうぜ。恥ずかしいかどうかやってみないとわかんないこともあるぜ。笑ってた人が恥ずかしくなることだってあるぜ、ワイルドだぜ、と書いていて自分の恥ずかしいことを思い出してきてキャーッとなってきたので終わりにしたいが、
「恥ずかしさ」って、何をするのもすんごく大事な気もしてる。もしも恥ずかしさってのがなかったら、とんでもない世の中になるやろうなともおもう、基本、人前で歌を歌うことも本当は恥ずかしいことで、だからなるべく、そこは自分なりに恥ずかしくないように超えて進んでいったろうとおもえるんだとおもったりして。そうどっかで感じながら、命あればこれ、40を突破し、55レッツゴー還暦こえてどこまでもいけたらとおもう2012年39の梅雨だ。
梅雨あけたらこれ、ライブぎっしりの熱い夏になりそうです。
どっかで会えたら!