2023年7月4日火曜日

Vol.280「2023年濃い6月、中尾諭介50祭」の巻

 梅雨もあっという間に過ぎ去ったか、こんにちわ2023年夏、日差しがいたいですな。
 まさか自分が日差しを苦手になるなんて、、日陰ばかりを選んで歩いております夏、いかがおすごしか。

 2023年6月は濃かった。
 1日の吉祥寺GBでのライブに始まり、番組「がむしゃら」ロケで武相高校のボクシングを応援するべく山梨へ行き白熱。10日はMINAMINO ROCK FESにて南野さんの代わりに4-STiCKSのボーカルとしてたくさんの想いを感じ歌い、そして沖縄2DAYS、からの宮崎は延岡での本田誠人展、その翌日には東京に戻り、そのまま番組収録、からその後ONE NIGHT STANDのリハーサルをやり帰宅。翌日もリハーサルをやり本番30日へ。
 その合間合間に別仕事や頼まれ音楽仕事をやった6月。我ながらハードであったけどそのどれもがつながっていることを感じ、いい経験をさせてもらった6月。

 沖縄でライブをやるのは初めてだった。10年前に高木フトシさんとライブハウスの店長上江洲くんとそんな話をしていてやっと実現した。沖縄出身の上江洲君は現在は沖縄の那覇Out putの店長だが、その前は下北沢シェルターの店長をしていた。その頃に9.11の戦争反対のイベントを開きそこで高木フトシさんと僕を出会わせてくれた。その時に沖縄には沖縄の終戦の日があることを教えてくれた。
 6月23日「慰霊の日」上江洲君は毎年この日にライブを開き、平和について考える日として19年間続けている。今回は我々も参加すべく沖縄へ。そのイベントに向けて東京からきた僕たちを案内してくれて22日には「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」へ行き、ナビゲーターのおばさんの話を聞きながら防空壕の中を歩いていった。天井が低いのでかがみながら、それぞれにヘルメットをかぶり懐中電灯を手にしてついていく。狭い通路の半分は二段ベッドが連なり負傷した人たちが横になっていたこと。十分な設備も麻酔もなく、手や足はすぐに麻酔なしで切断され、切断された手や足は山の斜面に爆弾で開いた穴に集めて捨てられていたこと。その役目を女学生らが担っていたこと。台所は別の山を越えたとこにあったので、ご飯のたびにお米の樽を二人がかりで女学生が運んでいたこと。その山道を飯上げの坂と呼んでいたこと。アメリカ兵は「降伏すれば何も危害を加えない」と呼びかけていたが、日本軍は降伏して情報が漏れるのを恐れて一般の人にも降伏はしないように、降伏をするくらいなら自決をと命令し、たくさんある防空壕の中で集団自決が行なわれたこと。その防空壕の病院では、真っ暗な中でベッドに横たわる人たちの枕元に青酸カリが入ったミルクが配られたこと。防空壕の向こうのほうから歓声が聞こえたので、そのミルクに喜んでいるのかとおもったら青酸カリで苦しむ声だったこと。ミルクの異変に気づき吐き出して命が助かった人の話などをナビゲーターのおばさんはしてくれた。    
 端っこまでついた時に懐中電灯を消すように言われて、鼻の先も見えないほどに真っ暗な中でその話を聞いた。その途中に地面が揺れた。地震だった。外から爆発音のようなものも聞こえた。フトシさんも聞いたと言ってたから空耳ではないが、なんの音だったかはわからない。爆弾が落ちた時というのはきっとあんな様子なんだろうという感じだった。

 その日の夜はgrooveというとこでライブ。シャロントゥザスカイの魂くんと15年ぶりくらいに会う。彼には恩があった。長いこと曲が書けないでいた自分は魂君のライブをロフトに見に行き、魂くんの歌を聞いて曲が書けた。その歌は沖縄の海、ジュゴンと踊れるような海を守りたいというような内容で、その曲に感動した僕は挨拶をすることもなく帰って曲を作った。とても自然に、自分は自分の汚れた川をきれいにしたいと「祝子川」を作った。沖縄の海から延岡の川へ繋がった想い。その恩も伝えられ3人で一緒にそれぞれの「イマジン」をセッションして、きれいな空気が流れた。

 翌日は上江洲君主催のイベントへ。フトシさんと僕以外の共演者たちは沖縄の人だった。その中に73歳のフォークシンガーで佐渡山豊さんという方がおり、最後にみんなで彼の曲をセッションした。佐渡山さんは共演者全員の映像を見てきていて、一人一人に感想を述べてくれた。僕には「中尾君の歌は俺とおんなじ匂いがする、うれしいなぁ」とMCでも楽屋でも話してくれた。沖縄の歴史やご自身の歴史を静かに語ってくれた。
 僕はルーツが日本のフォークソングにあることなどを伝えた。僕は佐渡山さんを存じ上げていなかったが、あとから調べたら長渕剛さんが憧れていた人だった。何かあった時に長渕さんから電話がかかってきたりしたことを話してくれてはいたが、その長渕さんが佐渡山さんのことを熱く語っているユーチューブがあった。
 最近よく思っていた。僕の思想というか考えはやはり学生運動の時代、そのフォークシンガー達から影響をもらってるんだなぁと。その渦中に佐渡山さんはいた。僕は長渕剛さんを通してそこにたどり着いた。そのルーツを歌の中から嗅ぎ分けてくれて伝えてくれた。「江ノ島の裏磯にて」をほめてくれた。沖縄でこの歌を歌うのは挑戦だった。「沖縄がやられ」という一文がどう聞こえるだろうかと思ったが、演奏後に“伝えられた”実感があった。お客さんにも佐渡山さんにも“伝える”ことができて、沖縄に来てよかったと思った。想いの集まるいいイベントだった。7月4日にはフトシさんと下北沢のラプソディーで沖縄ツアーの締めライブがあり、感じてきたことを伝えられたらと思います。配信もあるのでぜひ。

 そして宮崎は延岡で本田誠人展へ。コロナ渦で葬儀もなく誠人を真ん中に集まれることがなかったので本当によかった。奥さんの泉ちゃんや子供達にも会えた。自分は個展会場のロビーでふらりと、誠人にゆかりある曲を歌った。大ホールでは泉ちゃんが率いる劇団「あんてな」による、誠人が最後に脚本を残したラジオドラマの演劇公演も行なわれた。誠人のメッセージが届いてきて感動した。何より宮崎の役者さん達のレベルの高さに感動したし、それこそが誠人が残したメッセージだとも感じた。やっぱり誠人はすごいなと、みんな笑顔で、これでこそ本田誠人の日だと思えるいい日になった。
 
 終演後、その公演の演出を手がけた段さんが話しかけてくれた。「私の教え子が観に来てくれましてね、今東京で活躍してる脚本家なんですが、ちょうど今家の用事で延岡に帰ってきてて、この本田君の年表をみてて、あぁこの漫才大会の予選に俺もでたんですって言ってたんですよ、ミナトっていう教え子なんですがね」と教えてくれた。僕は「そうなんですね」と聞きながら、あれ? ミナト?と思いiPadで調べて、この人ですか?と聞いたらば「そうです彼です」とのことだった。それで「えぇ!」となった。その人は映画「GOLD FISH」の脚本家さんだった。名前がミナトと言うからもしかしてと思って調べたら港岳彦さんだった。「ちょうど明日監督の藤沼さんとリハーサルなんですよ」と伝えたけれど、港さんが延岡の人とも知らず、まさか漫才大会で一緒になっていたなんて、すごい話だなぁと鳥肌がたった。

 そしてそんな藤沼さん達とのONE NIGHT STAND。ライブハウスGBのブッキングマネージャー昌平さんの発案で10年前に一度だけということで結成されて翌年もやることになり、それが10年続いた。この10年のこのバンドの存在は僕にとって大きい。この経験が自分の音楽人生をハリのあるものにしてくれているのは間違いない。その藤沼さんとの縁も不思議で、泉谷さんとのライブを観に行き藤沼さんとのコンビネーションに心が震え、ライブ後トイレに行き顔を洗って落ちつかせて「自分があの人とやったらどうなるだろう?」とシミュレーションしてしまったくらい感動した。その数日後にマネージャーの昌平さんから「一緒にやってみないか」というお誘いの連絡をもらったのも、不思議な縁だといまだに感じるところだ。今年は我50祭ということで、その音で祝ってもらい足を運んでくれたみんなからも祝ってもらい、祝ってくれる人たちの笑顔が今も残っていて、50代のパスポートをもらえたような気持ちです。祝ってくれたみんな、今まで歌を聞いてくれたみんなに感謝です、どうもありがとう。
 この日に恥じないよう一つ一つ大事に歌っていきますので、これからも歌をキャッチしてもらえたら嬉しいです。50代の中尾諭介の歌、何卒よろしくお願い致します。今月はこの辺で。

熱い闘い、親御さんも先生もみんなで熱くなりました。

ボクシングは個人競技ですが選手達同士で支えあいながら挑む姿に感動します。

山梨の空気、おいしかったです。

フォークに僕はギラギラしたものを感じて来た。
たった1人でギターを持って立ち向かう姿に魅かれて。
友部正人さんも73才でそのギラギラに希望を感じた。

友達が送ってくれた田んぼの水張り夕暮れ


沖縄に着いた日の夜居酒屋にて
完全にサプライズにかかり
ラプソディの秋山さんやフトシさんチームにお祝いしてもらいましたっ

防空壕病院の外にある碑

沖縄陸軍病院南風原壕郡 20号

古民家食堂

今まで食べた沖縄料理の中で一番おいしかった。

上江洲くんとフトシさんと。

タマシイくんとフトシさんと。

そして佐渡山さん
73才ラップに挑戦
沖縄からメッセージを発し続けてきた人
その人に嗅ぎ取っってもらえて嬉しかった。
口調も眼差しも優しかった。

一度も海に行かなかったなぁとパシャリ。

集まれてよかったね。

ありがたく鍛えてもらってきました。10年。

そして8月の越ヶ谷でのインザスープLIVEに向けてイベンターの斉木さんと共演ファズアクトの徳永くんと会合。

アフター沖縄LIVE

7月もまた山あり

そして久々の札幌へ。


諭介がお答え致します

■「諭介さんお誕生日おめでとうございます!なんとびっくり50歳!!若いときに影響を受け憧れていた人と会えるなんて、そのときの自分には想像もできなかったかもしれないけど、道は続いていたような気がしてしまいますね。いや、きっと頑張ってきたからこそ道がそこに繋がったのかな。私も高校時代の友人が永瀬さんのファンで映画の舞台挨拶にも見に行ったことがありました。あのとき聴いた永瀬さんの歌を、諭介さんが今ライブで歌ってるのも不思議な気持ち。これからまた思ってもなかった素敵なことが起こるかもしれないですね。一夜限りだったはずのワンナイトスタンドも今年でなんと十夜目(笑)なんて、こんな素敵なことないですよね。嬉しい気持ちでとても楽しみにしています!」
(A.T 2023/06/20 12:47)
→ありがとう、本当に分け入っても分け入っても青い山だけど、行けば行くほど歌や音楽が色んな場所に連れて行ってくれたり、縁を感じさせてくれるから面白いわ。
 色んなふっかけをもらうこともできて、聴いてくれるみんなのおかげで健全にお誘いを頂いて音楽ができていてありがたく感じながら50歳突破です。


■「少し遅れましたが、お誕生日おめでとうございます。そして憧れの人と対面できて良かったですね。きっと長く頑張ってきたご褒美ですね。余談ですが永瀬さんといえば私も一度だけ永瀬さんがご出演されていた映画のトークイベントを見に行った事があります。屋外のイベントで待ち時間が長くて、観覧している途中で気分が悪くなってしまって意識朦朧として回復した頃にはイベントも終わっていてほとんど内容を覚えていないという残念な思い出です。
諭介さんは素敵な思い出が出来て良かったです。50歳からの歌旅、もっと素敵で楽しくて刺激的な思い出が出来ますように。私も同じ景色を見ることが出来るようについていきます」
(夕陽 2023/06/26 23:26)
→ありがとう。永瀬さんに会えたのはもちろん嬉しかったけど何より藤沼さんが連絡をくれて、壇上にあげてくれた気持ちが嬉しかったわ。しかもONE NIGHT STAND では永瀬さんが映画の中で来てた衣装をプレゼントしてくれて、、本当に感謝です。

■「ずっと憧れていた人との対面、本当に良かったですね!映画、私の地域では上映期間が短く、忙しいときだったのでいざ見に行こう!と思ったら終了していて不覚にも見逃してしまいました…。DVDなど今後何かの機会があれば必ず観たいです。
諭介さん突き指していたのですね。スポーツ、危険ですね。でも配信で聴けたエレキの弾き語りもとても良かったです。諭介さんが50歳という響きにまだなんとなく慣れないですが、節目の年からも諭介さんの歌と音の愛がたくさんの人の心に循環していきますように願っています」
(hitomi 2023/06/28 0:06)
→ありがとうっ。いつかまたDVDで観てねっ。僕はどこに出てるかわからんやろけど、映画全体から色んなメッセージを感じてもらえたらと思うわ。突き指ね、、エレキの弾き語りってあんまりやった事なかったからいい機会になったね、配信観てくれてありがとう。