2009年5月1日金曜日

Vol.111「うれしいのは」の巻


新しく芽吹いた緑がきれいにみえます。もう初夏だねこりゃ。
にしてもあったかかったり、寒かったり、気温差あるけども、いかがおすごしか。


僕にとって幸せというか、喜びというか、大袈裟になるけど生きてていかったとおもえること。
まだ先に行けるとおもえることの一つとして、「曲ができた時」がある。
静かに喜ぶ、心ん中が充実で一杯になる。
曲はいくらでもできる。そのかわり、自分がきらいになるときもある。
非常に疲れる、オエっとなる。
どうやら、なんでもいいわけではなさそうで、よくわからんもんです。
本当はなんでもいいんだろうけどね。そうなれたらともおもいます。

できたとおもえる時は、先がみえる。だからといって言いふらしたいわけではなく、自分で喜んでる程度だ。
そのあとで、誰かに聞いてもらいたいなと少しずつおもう。

僕は前々から「アーティスト」って言葉や「クリエイター」って言葉に何かしら微妙な違和感を感じる。
単純にオシャレな印象があるってのがひっかかるとこだとはおもうが、なんなんだろうか、どうでもいいが「これが僕っす、こんなんでました」くらいがいい。その言葉を肩書きとしてる人達と何人もすれ違ってきたけど、切って貼り付けただけの人もいて、すこし寂しくなる。東京の時間の中でその肩書きで飯を食べなくてはいけないとき、それも仕方のないことはわかるけど、自分の暮らしの上で自分の言葉で話してる人の方が、よっぽど生きてるパワーを感じる。誰もがアーティストなので、わざわざそういう呼び方はいらないんじゃないかともおもいます。

どこを歩いてきたのか、どんな風景をみてきたのか、何に触れてきたのか、その人のフィルターや温度がほんの少しでも通っていないと、わからない。その人の手あかがついてないものがよしとされてる。それはそれでいいんだけど、ぼくはおもしろくない。
生きてれば、キレイなもんばっかりみていたいとおもうし、おもったとおりに生きたいともおもうけど、そればっかりじゃないから、何かうまれてきたりするんじゃないやろうか。

バイザウェイ。時々バランスばっかりとっていると、「あ~」と唸りたくなる。
グランド整備のとんぼで滑らかになった地面の下のマグマを開放するべく、何かがうまれることもある。
うまれた後で、自分の浅はかさを知ったり、よっしゃとなれたり、そんなことを繰り返しながらいくんだろうとおもいます。

色んな人がいるのはおもろいし、色んな自分がいてもおもろいとおもいます。
まだ知らない自分や人を知りながら、誰かがいてくれて自分がとべること感じながらいけたらとおもいます。


「東京インディアン」というアルバムを出します。2007年くらいから最近までのアルバムです。タイトルは10代の頃に憧れ出てきてずっと暮らしてる東京と、20代の頃より秘かに憧れていたインディアン。自分の中で相反する憧れですが、今の自分にピッタリであるなーとおもいます。聞いてもらい、耳じゃないとこにも何かが届けられたら、嬉しいし、おもろくおもいます。(おわり)

夕焼けをダンクシュ-ト。

6月のツアーの打ち合わせ。
三人のボ-カル親方によるミイティング。
びっしりとそれらしく書いてますが、中身は
「お酒はのんでもいいしのまなくてもよい」とか
「くんづけで呼び合おう」とか。
頭悪い感じですが楽しみです。