イチョウの葉が街を黄色で包む、道路も黄色でシャッシャと歩く。
やっぱ好きやなぁ秋。
24日、ワンマン2日前、夜、公園を歩き自分の音を聞く。
自分の呼吸、枯れ葉を踏む音。
それだけが聞こえる冷たい空気の中、確かめられた自分がより浮き彫りになって力が湧いてくる。静けさから湧いてくる力。ゆるぎようのない力を確かめる。そういうことあるねやっぱ。 いかがおすごしか。
と、ブログのほうでもお伝えした宮崎でのことや口蹄疫のことを書こうと思う。
今回は日の影町での花火大会でのライブと、泉谷しげる氏が親分となり主催された口蹄疫義援ライブの二つに出場するべくの帰郷であった。
日の影花火大会前日は名古屋アップセットでライブだった。1月ぶりのアップセット。1月でのライブ後に心に残った感情をキッカケにできた曲をひっさげてのライブであったので、お土産をもってかえった気分にもなった。
話は前後するが、この三日前、日の影町のライブは台風接近のため中止となっていた。
そう、中止となっていたが、もうひとつライブがあるので、どの道翌日には宮崎に向かわなければならず、しかも台風は宮崎を通過しており、名古屋に接近とのこと。
メンバーとは名古屋で別れて自分はそのまま名古屋滞在。
翌日の名古屋からの飛行機が飛ぶのかが心配であったが、その日の夜は名古屋の音楽番組の司会をやっていた時のテレビ局のプロデューサーと痛飲。
飛行機も飛ばない可能性大であったし、翌日のライブも中止となったので、こうなったらと開き直り、午前3時あたりまで痛飲。
ホテルについて、靴をはいたまま睡眠。
起床し時計をみたら、飛行機離陸まで30分。
ここは一つ、台風さん飛行機飛ばさないで、もしくは遅らせておいてくれと飛行機会社に電話するも、「通常通り運航しております」とのこと(その頃台風は東京方面へ)。
キャンセルをお願いし、新幹線で宮崎へ向かうことに。今年はよく電車に乗るなぁとおもいながら、新幹線で九州へ向かっていると、日の影花火大会の実行委員
のS氏より着電、「花火大会は中止になったけど、実行委員に向けて小さいライブをやってくれんやろか」とのこと。一瞬昨夜の痛飲が効いており、こりゃ使い
もんにならんやろうともおもったが、やってやれないことはない、やっちゃえやっちゃえと逆におもしろくなってきてやることに。
夕方延岡につき、迎えにきてもらったSさんと車中で話す。
S氏はこの突発的なライブ遂行の主犯であり、イタズラ小僧が悪さをする時のワクワクが滲み出ていた。
口蹄疫のことについてもきいてみた。
日の影町は口蹄疫が発見された場所からは遠く、被害はそれほどでもないのだろうとおもっていたのだが、それはまったくもって浅はかな推測で、それまでイタ
ズラ小僧のようだったS氏が、ゆっくりと身のまわりの被害状況を教えてくれた。
口蹄疫はこなかったが、あの期間酪農家は市場が閉鎖されており、牛や豚を市場に出すことができない。毎日何万円という餌代だけが出費されていく。それが何
カ月も続き、いつ終わるかもわからない、しかも感染が広まるかもしれない不安の中での生活。「酪農をやっているもんに対して、なんて声をかければいいかわ
からんかった」というS氏の言葉が、その被害を表していた。
僕が口蹄疫を知ったのは遅かった。宮崎の友達と電話で話したとき「今大変なっちゃが、知らんとけ」「え? 何それ」。
その時聞いた話でも、あまりピンとこなかった。
ある時東京のそば屋にて隣りの人が読んでいた新聞に口蹄疫のことが書いてあった。
こちら側に、太文字で「戦争のようだ」と酪農家の方の言葉が書いてあった。
そんなにかとおもい読んだ。牛や豚が殺され、掘った穴に埋められていく。感染していない牛や豚も、感染区域となったら殺され埋められていく。全身白い服を
きた人達が消毒をしながら作業にあたる。牛や豚を手放さなくてはならない酪農家や、作業をしていた人達の悲惨さが「戦争のようだ」という言葉で伝わる。ま
た作業にあたる人へのカウンセリングも必要であったとのことだった。
しかし東京にいて、街はいつものように時がながれており、同じ国で「戦争のようだ」ということがおこっている国だとはおもえない毎日だった。そんな口蹄疫
がまだ広がっているまっただ中の頃、銀座を歩いていると「宮崎を応援します」と、あるレストランが看板を出しており、宮崎牛などのフェアを開催していた。
感動もしたが、我が故郷であるのに何もしていない、意識の薄い自分を恥ずかしくもおもった。
またある時は肉巻屋さんで店員のお兄さんに「口蹄疫の影響ってやっぱある?」なんて聞くと、「ありますよ、なるべく騒がないでほしいです」なんて意見もあった。
確かに、何事もないかのような東京の流れの中で、何やら宮崎の牛が疫病にかかってるらしいなんてニュースが流れれば、イメージだけで手がでなくなるのもわかる。
さらに、野菜なども宮崎の名があるだけで、敬遠されていたときいた。
8月には大同窓会と兄弟ライブの二つのイベントが宮崎の延岡で開催される予定だった。感染が広まるにつれどちらのイベントも中止の可能性があるとのこと
だった。それが日に日に本当に中止かもしれないとなった。その頃には宮崎のたくさんのイベントが中止になっていた。
弟ウコカとも口蹄疫のことを話し合い曲をつくった。
なんとかイベントは中止にならずにすんだ。
8月宮崎に帰ると、検問のように車の消毒がおこなわれていた。
殺された牛や豚をみていないし、空っぽの牛舎もみていないが、国道を通った時ニオイがした。殺された豚、牛のものだと聞いた。
口蹄疫のことをはじめて知った時、東京にいて、「でもゆくゆくはどっちみち殺すんでしょ」っておもったりもした。でもそれとこれとは違う。まったく、全然違いすぎると今はわかった。
目に見えないものであるし、その被害も様々で、いろんな立場によって受ける被害も様々だとおもう。まだまだ自分は知らないことばかりやろう。
おもうのは感染が止まらなかったらどうなっていたか。
例えば東京まできてやっとみんな気付くのか。
違う県やったらこんなに感じたやろうか。
メシを食うってこと。
口蹄疫のことで宮崎から、被害のことや命のことが、ゆっくり語り継がれて広まっていくんだとおもう。
上手くいえないが、イベントに参加し、感染を宮崎だけにとどめてくれたことを、本当は全国の人がもう少し、知るだけでも知ってもらいたいなとおもったりもした。
県外に住んでるもんとしては、「頑張ろうや宮崎!」の前に一回「ありがとう宮崎」や。
2010年12月7日火曜日
2010年11月1日月曜日
Vol.129「2010年、秋のアンテナ」の巻
寒暖の差激しい今日この頃、いかがおすごしか。
乱拍子で、このまま冬になってしまうのかしら。今年の冬は猛烈に寒いらしい。そんな情報におびえながら、こちらも乱拍子。整理つかない頭でよぎったままに書いてみようとおもう。アンテナ発信。
9月はライブがなかった。かわりに人のライブを観に行った。泉谷しげるのライブがかっこよかった。やっぱライブってこれだよなとおもった。ギターの藤沼さんがかっこよかった。これ日本のロックバンドの頂点じゃないかとおもうほどの刺激をもらった。
時代は変われど有無言わせず確かなもんがあった。うまく言えんが最高だった。
映画も観た。ジョニー・デップのギャングものを借りてみたのだが、いまいち話がわかりづらいなぁ~と前半のあたりできづいたのだが、字幕がでていなかった。今のDVDはじぶんで設定しなくちゃいかんのね。字幕をだしてみたらおもろかった。
新宿のツタヤにいった。新宿のツタヤは自分好みのDVDがたくさんあり、もう観れないと思っていたDVDがあり、大発見をした気分になった。新宿ツタヤはいい。
テレビも観た。戦争のことをやっていた。アメリカの無人飛行機が爆弾を落としていた。落としたパイロットはテレビゲーム感覚だと言っていた。実際に飛ばなくてもいいので楽だとも言っていた。落とされた方は誤爆を受けていた。無人機に対抗して、自爆テロをくりかえしていた。自爆テロに向けて小さい頃より教育を受けていた。
渋谷の交差点で日の丸の列をみた。鳥肌が立った。「我々は許さないぞ」と叫んでいた。この鳥肌はなんだろうとおもった。
「ハートロッカー」という映画を思い出した。
きっといつの間にか、そうなってること。タバコが値上がりして慣れてくように、いつの間にか年齢をとったように。もしかしたらそんな、いつのまにかこうなってたってのでも、戦争ってのはおこりうるものかもしれんなとおもった。
もう後戻りできないとこで、やるしかないと思い込み、快楽にさえなりえることもあるんだろう。どうにもならない連鎖の中で今の暮らしを思い出す、寝起きのような答弁で決まった事の犠牲をまのあたりにすることがありうるかもしれないとおもった。
何年か前のピースウォーク。アメリカ大使館前に座りこみ平和を叫ぶヒステリック感を感じた時とにていた。
子供の頃、戦争が起きたらあの山にいって穴を掘ってみんなで隠れて暮らそうとおもっていたことをおもいだした。今はもう多分違う。
止められない大きな力で、タライごと移される金魚みたいに、泳いでた場所さえ簡単に変えられることがあるかもしれないとおもった。今できることってあるとおもった。心の中にその宿題はたくさんある。もっと大きくなれる。
そうなったらやるしかないっていう男のわかりやすさがある。たたかいはきっとその前にあるんだとおもう。今、この日常の中に。
歴史はくりかえされると言われると、へーなんておもうが、だれも宇宙の果ての果てなど知らない。繰り返してきた自覚と同じことをしうる自分の自覚、危うさの自覚。ひずむアンテナがやさしい共鳴音を奏でられたらとおもう。
いろんな電波がとびかって、知らない間にもそれをキャッチしてる。時々ひずむ。自分のひずみは自分で溶かせたらとおもう。
猛暑に鳴きちらした蝉も、焼け焦げたひまわりも、ゆるやかに土に還る秋。悲しさも寂しさも優しく撫でていく秋風。そんな秋を待っている、そんなアンテナ、今日この頃だ。
代官山 晴れたら空に豆まいてのブッキングマネージャー、角野さん。
訃報、お別れをした。
「中尾くん誰とやってみたい?」
「誰々さんとやってみたいっすねー」
「よし、聞いてみよか」とか。
「誰々さんとやってみたら、おもしろいとおもうんだよね」
「やります」とか。
「こういうイベントがあるんだけど、どう?」
「んーちょっと」とか。
「このCD聞いてみて」とか。
そういうことを話してる時、ガキんちょが悪だくみをしてるような顔になっておもしろかった。大御所の方や、とにかく濃ゆいメンツをブッキングしてもらい出会わせてくれた。ふっかけられたり、ふっかけかえしたり。
数あるライブハウスが毎日のブッキングを埋めていく。
その中には、いろんなブッキングがある。
これは個人的な感想だけど、熱のあるブッキングとそうじゃないもの。
やるほうはやるのだから、どんな状況だろうが大事件なのは間違いないが、その差はやっぱりある。歌える場所があればどこでも歌うのが基本だが、一緒に何かを作る、熱のある人と出会えるのはやっぱり喜びだ。
角野さんはもともと音楽ライターをやられていて、思ってないことを書かないことで有名だったと聞いた。それは当り前のことやないかと書いてておもったが、仕事として割り切ってる人と、割り切れない人ってことだとおもう。角野さんは割り切れないというか、割り切らなかったんだろうとおもう。それをするくらいなら、ブッキングにしても音楽ライターにしても、バイトでもして稼ぐわいって人だったんだろう。
仕事としてプロとして、それはどうかという考えもあるやろうけど、僕はそういう人が好きやし、それが本当やとおもう。時代に逆行しても貫いた。そんな人からふっかけてもらい、記憶の中で黒点のように残り続ける夜達をもらったことに感謝です。
角野さん、こっから先もです。また何かふっかけてもらえたらとおもいます。
僕はまだまだです。 やります。 よろしくです。
乱拍子で、このまま冬になってしまうのかしら。今年の冬は猛烈に寒いらしい。そんな情報におびえながら、こちらも乱拍子。整理つかない頭でよぎったままに書いてみようとおもう。アンテナ発信。
9月はライブがなかった。かわりに人のライブを観に行った。泉谷しげるのライブがかっこよかった。やっぱライブってこれだよなとおもった。ギターの藤沼さんがかっこよかった。これ日本のロックバンドの頂点じゃないかとおもうほどの刺激をもらった。
時代は変われど有無言わせず確かなもんがあった。うまく言えんが最高だった。
映画も観た。ジョニー・デップのギャングものを借りてみたのだが、いまいち話がわかりづらいなぁ~と前半のあたりできづいたのだが、字幕がでていなかった。今のDVDはじぶんで設定しなくちゃいかんのね。字幕をだしてみたらおもろかった。
新宿のツタヤにいった。新宿のツタヤは自分好みのDVDがたくさんあり、もう観れないと思っていたDVDがあり、大発見をした気分になった。新宿ツタヤはいい。
テレビも観た。戦争のことをやっていた。アメリカの無人飛行機が爆弾を落としていた。落としたパイロットはテレビゲーム感覚だと言っていた。実際に飛ばなくてもいいので楽だとも言っていた。落とされた方は誤爆を受けていた。無人機に対抗して、自爆テロをくりかえしていた。自爆テロに向けて小さい頃より教育を受けていた。
渋谷の交差点で日の丸の列をみた。鳥肌が立った。「我々は許さないぞ」と叫んでいた。この鳥肌はなんだろうとおもった。
「ハートロッカー」という映画を思い出した。
きっといつの間にか、そうなってること。タバコが値上がりして慣れてくように、いつの間にか年齢をとったように。もしかしたらそんな、いつのまにかこうなってたってのでも、戦争ってのはおこりうるものかもしれんなとおもった。
もう後戻りできないとこで、やるしかないと思い込み、快楽にさえなりえることもあるんだろう。どうにもならない連鎖の中で今の暮らしを思い出す、寝起きのような答弁で決まった事の犠牲をまのあたりにすることがありうるかもしれないとおもった。
何年か前のピースウォーク。アメリカ大使館前に座りこみ平和を叫ぶヒステリック感を感じた時とにていた。
子供の頃、戦争が起きたらあの山にいって穴を掘ってみんなで隠れて暮らそうとおもっていたことをおもいだした。今はもう多分違う。
止められない大きな力で、タライごと移される金魚みたいに、泳いでた場所さえ簡単に変えられることがあるかもしれないとおもった。今できることってあるとおもった。心の中にその宿題はたくさんある。もっと大きくなれる。
そうなったらやるしかないっていう男のわかりやすさがある。たたかいはきっとその前にあるんだとおもう。今、この日常の中に。
歴史はくりかえされると言われると、へーなんておもうが、だれも宇宙の果ての果てなど知らない。繰り返してきた自覚と同じことをしうる自分の自覚、危うさの自覚。ひずむアンテナがやさしい共鳴音を奏でられたらとおもう。
いろんな電波がとびかって、知らない間にもそれをキャッチしてる。時々ひずむ。自分のひずみは自分で溶かせたらとおもう。
猛暑に鳴きちらした蝉も、焼け焦げたひまわりも、ゆるやかに土に還る秋。悲しさも寂しさも優しく撫でていく秋風。そんな秋を待っている、そんなアンテナ、今日この頃だ。
代官山 晴れたら空に豆まいてのブッキングマネージャー、角野さん。
訃報、お別れをした。
「中尾くん誰とやってみたい?」
「誰々さんとやってみたいっすねー」
「よし、聞いてみよか」とか。
「誰々さんとやってみたら、おもしろいとおもうんだよね」
「やります」とか。
「こういうイベントがあるんだけど、どう?」
「んーちょっと」とか。
「このCD聞いてみて」とか。
そういうことを話してる時、ガキんちょが悪だくみをしてるような顔になっておもしろかった。大御所の方や、とにかく濃ゆいメンツをブッキングしてもらい出会わせてくれた。ふっかけられたり、ふっかけかえしたり。
数あるライブハウスが毎日のブッキングを埋めていく。
その中には、いろんなブッキングがある。
これは個人的な感想だけど、熱のあるブッキングとそうじゃないもの。
やるほうはやるのだから、どんな状況だろうが大事件なのは間違いないが、その差はやっぱりある。歌える場所があればどこでも歌うのが基本だが、一緒に何かを作る、熱のある人と出会えるのはやっぱり喜びだ。
角野さんはもともと音楽ライターをやられていて、思ってないことを書かないことで有名だったと聞いた。それは当り前のことやないかと書いてておもったが、仕事として割り切ってる人と、割り切れない人ってことだとおもう。角野さんは割り切れないというか、割り切らなかったんだろうとおもう。それをするくらいなら、ブッキングにしても音楽ライターにしても、バイトでもして稼ぐわいって人だったんだろう。
仕事としてプロとして、それはどうかという考えもあるやろうけど、僕はそういう人が好きやし、それが本当やとおもう。時代に逆行しても貫いた。そんな人からふっかけてもらい、記憶の中で黒点のように残り続ける夜達をもらったことに感謝です。
角野さん、こっから先もです。また何かふっかけてもらえたらとおもいます。
僕はまだまだです。 やります。 よろしくです。
2010年9月29日水曜日
Vol.128「2010年、夏、星が遊ぶ、2」の巻
アッつい夏に、今年はおかしいとか、あっついあっついなんてことをぼやいていたら、はいはいわかりましたよ、なんつって急激に冷え込んだりして、極端な秋。
はっきりしていてわかりやすいけど、なんだかやっぱりあの、じんわり感というのが欲しいとこです。
朝焼けや夕焼けの、あのなんともいえない、何色ともいえない部分。言葉にならない部分というのはやっぱりあってほしいもんです。察するとか、想うなんてことがどんどんなくなっていくのかしらなんて、極端な秋の中おもったりして。
んが、やはり秋は秋。この清潔感のある空気のなか、背筋伸びる今日この頃、いかがおすごしか。
先月にひき続き、8月宮崎滞在記を書こうとおもうも、時間が経つと思いだすのに一苦労だもんで写真をみながら書こうとおもう次第です。
10日程の実家滞在。高校時代に使っていた自分の部屋で寝る。
朝はほとんど毎日、姪っこに起こされた。「朝よー起きんけー!」なんつって元気よく起こされるが、こちら寝るの遅かったからまだ寝かせてくれんかと、ごにょごにょ。
また眠りの中へ。
眠っている間に携帯かちゃかちゃいじられており、写真をパチリ。寝ぼけたあたまの遠くで、姪っこふたりのイタズラヒソヒソが聞こえる。「ひっひっひ」
あるときはこそこそと足元で話しており、やはり意識の遠くで二人の声が聞こえる。
「おねぇちゃん、足に毛を書いちょってやろうや、ひっひっひ」ヒソヒソ話、いたずらの提案はいつも妹の方。
起きてみると案の定、マジックで毛が書かれており、「なかおゆうすけ」と丁寧に名前までかいてあった。「こら!なんしよっとか」げらげら笑いながら逃げる姪っこ達。
2010年夏、いい思い出です。
そんなこんなで、今回は弟ウコカとのライブ、兄弟歌喧嘩祭り。
自分はギターのタメゴロー氏とバイオリンの永野さんとの特訓のため、宮崎市内の方へ遠征特訓。途中、口蹄疫の消毒があったり、いろんな匂いがしたりと、口蹄疫の影響を実感する。
練習スタジオは宮崎のパンクバンドの隠れ家のような、バラック小屋のスタジオ。
まわりは畑に囲まれており、一日そこで特訓。素敵な場所であった。こういう場所を自分達で確保しているパンクバンドを羨ましくおもう。
もう7、8年前やろうか、弟ウコカから自作の曲が入ったテープをもらった。
ツアーの帰り、一人の車の中でそれをきいた。
気がつくと同じ曲を巻き戻しては何回もきいており、へたっぴだったけど、なんかよかった。我が弟のことで恐縮だが「三冊の本のはしご」という曲、おすすめです。
マイペースで音楽活動を続けてきたウコカも去年アルバム発売となり、全国を旅して歌うようになった。そんな時、宮崎県は延岡総合文化センターの方より兄弟でのライブを提案してもらい、実現した。
初めは一瞬、今やる時だろうかとか、単純になんだかはずかしかったりしたが、こういった機会でもないとやることがないので、遂行させてもらうことにした。
東京にて、ふたりで曲をつくったり、練習をしたり。兄と弟ではあるが、お互いの歩んできた音楽道を、それぞれ、いち歌うたいとしてぶつけあえたのがおもしろかった。
全然違うとこもおもしろかったが、似ているとこもあった。
似ているところが、困ったことにハモリが苦手とかギターソロが上手でないとかであった。
これ、二人でうたう場合、どちらかがハモれたりできそうなもんであるが、どちらもチャゲ役にまわれない。よって二人で同じとこをうたうのだが、逆にそこは兄弟、同じメロディーの中でハモれたような気分になった。兄弟でしか出せない何かも発見できておもしろかった。
本番、地元のみんなの協力もあり、大成功となった。もちろんまだまだ二人で出来ることも、伝えたいこともありそうだと、お互いに感じたりもした。
兄弟で地元でのライブはなんだか、お客さん総親戚みたいな気分でもあった。
正月やお盆に集まる親戚、会ってない時に恥ずかしくない生き方をしてきたか、胸を張って会えるかみたいな気分になったりもした。あったかさも厳しさもある。
一つのライブを完成させるのに、協力してくれたみんな、足をはこんでくれたみんな、そんでウコカに、またこれから先、もっともっと自分の道を磨いたろうとますますおもわせてもらったライブであった。そんな力をもらって、我が道をいき、またいつの日か、歌喧嘩できたらと思う次第だ。(おわり)
P.S. さて、ニックバッカーズ11月26日@吉祥寺プラネットKでのワンマンに向け、秋を疾走する次第ですどうぞよろしく。よい秋を!
はっきりしていてわかりやすいけど、なんだかやっぱりあの、じんわり感というのが欲しいとこです。
朝焼けや夕焼けの、あのなんともいえない、何色ともいえない部分。言葉にならない部分というのはやっぱりあってほしいもんです。察するとか、想うなんてことがどんどんなくなっていくのかしらなんて、極端な秋の中おもったりして。
んが、やはり秋は秋。この清潔感のある空気のなか、背筋伸びる今日この頃、いかがおすごしか。
先月にひき続き、8月宮崎滞在記を書こうとおもうも、時間が経つと思いだすのに一苦労だもんで写真をみながら書こうとおもう次第です。
10日程の実家滞在。高校時代に使っていた自分の部屋で寝る。
朝はほとんど毎日、姪っこに起こされた。「朝よー起きんけー!」なんつって元気よく起こされるが、こちら寝るの遅かったからまだ寝かせてくれんかと、ごにょごにょ。
また眠りの中へ。
眠っている間に携帯かちゃかちゃいじられており、写真をパチリ。寝ぼけたあたまの遠くで、姪っこふたりのイタズラヒソヒソが聞こえる。「ひっひっひ」
あるときはこそこそと足元で話しており、やはり意識の遠くで二人の声が聞こえる。
「おねぇちゃん、足に毛を書いちょってやろうや、ひっひっひ」ヒソヒソ話、いたずらの提案はいつも妹の方。
起きてみると案の定、マジックで毛が書かれており、「なかおゆうすけ」と丁寧に名前までかいてあった。「こら!なんしよっとか」げらげら笑いながら逃げる姪っこ達。
2010年夏、いい思い出です。
そんなこんなで、今回は弟ウコカとのライブ、兄弟歌喧嘩祭り。
自分はギターのタメゴロー氏とバイオリンの永野さんとの特訓のため、宮崎市内の方へ遠征特訓。途中、口蹄疫の消毒があったり、いろんな匂いがしたりと、口蹄疫の影響を実感する。
練習スタジオは宮崎のパンクバンドの隠れ家のような、バラック小屋のスタジオ。
まわりは畑に囲まれており、一日そこで特訓。素敵な場所であった。こういう場所を自分達で確保しているパンクバンドを羨ましくおもう。
もう7、8年前やろうか、弟ウコカから自作の曲が入ったテープをもらった。
ツアーの帰り、一人の車の中でそれをきいた。
気がつくと同じ曲を巻き戻しては何回もきいており、へたっぴだったけど、なんかよかった。我が弟のことで恐縮だが「三冊の本のはしご」という曲、おすすめです。
マイペースで音楽活動を続けてきたウコカも去年アルバム発売となり、全国を旅して歌うようになった。そんな時、宮崎県は延岡総合文化センターの方より兄弟でのライブを提案してもらい、実現した。
初めは一瞬、今やる時だろうかとか、単純になんだかはずかしかったりしたが、こういった機会でもないとやることがないので、遂行させてもらうことにした。
東京にて、ふたりで曲をつくったり、練習をしたり。兄と弟ではあるが、お互いの歩んできた音楽道を、それぞれ、いち歌うたいとしてぶつけあえたのがおもしろかった。
全然違うとこもおもしろかったが、似ているとこもあった。
似ているところが、困ったことにハモリが苦手とかギターソロが上手でないとかであった。
これ、二人でうたう場合、どちらかがハモれたりできそうなもんであるが、どちらもチャゲ役にまわれない。よって二人で同じとこをうたうのだが、逆にそこは兄弟、同じメロディーの中でハモれたような気分になった。兄弟でしか出せない何かも発見できておもしろかった。
本番、地元のみんなの協力もあり、大成功となった。もちろんまだまだ二人で出来ることも、伝えたいこともありそうだと、お互いに感じたりもした。
兄弟で地元でのライブはなんだか、お客さん総親戚みたいな気分でもあった。
正月やお盆に集まる親戚、会ってない時に恥ずかしくない生き方をしてきたか、胸を張って会えるかみたいな気分になったりもした。あったかさも厳しさもある。
一つのライブを完成させるのに、協力してくれたみんな、足をはこんでくれたみんな、そんでウコカに、またこれから先、もっともっと自分の道を磨いたろうとますますおもわせてもらったライブであった。そんな力をもらって、我が道をいき、またいつの日か、歌喧嘩できたらと思う次第だ。(おわり)
P.S. さて、ニックバッカーズ11月26日@吉祥寺プラネットKでのワンマンに向け、秋を疾走する次第ですどうぞよろしく。よい秋を!
2010年8月30日月曜日
Vol.127「2010年、星が遊ぶ、1」の巻
2010年夏、来年の分まできちゃったのかってなぐらい、猛暑です。あちーあちーです。熱中症きをつけねばなりません。いかがおすごしか。
8月、10日間ほど宮崎に帰った。
この度は都合により、そんな宮崎滞在を思いつくままに書きたいとおもう次第です。時間がないのよね。言い訳失礼。
大同窓会、
大同窓会とはこれ、高校の時の同窓会なのだが、我が高校に代々伝わる同窓会で、星遊会と銘打ち、代々、その年の仕切る年代が受け継がれていくシステム。
今年は、27期生、うちらの代であった。
地元にいる友らは実行委員として資金を集めたり、企画を考えたり、週に一度集まってはその一日のために動いていた。
正直な話、はじめはやはりこれ、家族があったり、仕事があったりでのことなので、大変そうであった。自分も電話にて、歌をつくってライブする旨を伝えられた。
「でも、ライブやらが入ったら、行けないけどね」と一応のエクスキューズをむにゃむにゃ伝えると。「へーそんなもんけ、絶対にスケジュールを空けてくれって言いよるっちゃけど」といつもにこやかな友から念を押され、なるほどこれはおおごとだなと、スケジュールを約束した。
帰郷し、その準備にも顔をだし、「何すればいいとー何すればいいとー」なんて、ゼンマイ仕掛けのオモチャのようになっていると「やることは自分でみつけて」と怒られる。
37にもなり、同級生に怒られるとグッとくるものがある。これはみんな真剣であるなぁと、やること見つけとりかかる。
役所で働いている友達と、当日歌ううたに合わせて映し出す写真の打ち合わせをする。「役所仕事」なんて言葉があるが、この友達の仕事ぶりは、非常に柔軟でアイディアに溢れていて、おおーっとなり、当日がさらに楽しみになる。
翌日はテレビやラジオに出て、同窓会と兄弟ライブの宣伝活動。
同窓会本番、お昼から準備やらリハーサル。おおー久しぶりーってのも二の次で、みんな段取りよく凛々しく進行に努める。
開場の時間になり、僕と、高校時代、漫才の相方だった本田誠人と、学ランとセーラー服といういでたちで、歴代の先輩や後輩を受け付けの前で迎え入れる。
自分は学ランの方であった。誠人のセーラー服に比べキャラクター的に意外とフツーであったためか、非常に中途半端な心もちで、終始モジモジ君であった。
会が始まり、ホテルの大会場は騒がしく盛り上がっている。
自分の歌う番が近くなると、いつもと違う緊張をする。
各テーブルは久しぶり~の会話で盛り上がっている。
こういった場合、まったく聞く耳をもたれない可能性がありまくる。
自分は会のクライマックスを任されており、同級生が一年かけて作り上げてきたものをぶち壊すかもしれない、かもしれないが、ここはなにが何でも大成功を納めなければならないとおもうと、緊張がさらにました。
「聞けよこの野郎~」なんてことも言わないといけないかもなぁなんていろんなシュミレーションをしていると、出番になり、ステージにあがった。
照明が消され、ピンスポがあたる、会場中が一気に自分に集中しライブは心配したこととは逆に盛り上がり、アンコールまであり、誠人や同級生の演出、段取りが一つになり大成功となった。
大成功となった大同窓会は終わり、その日は朝まで飲み、またしても携帯電話をなくし、同級生に迷惑をかける。
「首からさげとくように」と母にストラップをもらい怒られる。またしても情けない気分になり、言われたとおり携帯を首からさげる。
翌日は小学校のタイムカプセルが30年ぶりにあけられた。
小1の自分との対面にドキドキしたが、作文、絵、手形。どれも訳もわからずやらされてる感満載の、やる気のないものばかりでがっかりする。
手形などは指が8本あり、作文も原稿用紙の半分も書いておらず、「王選手になりたい」でしめくくられていた。もう少し何かあっただろうと、心の中で小1の自分に「ちゃんとやれ」とつぶやいた。
そのあと、残念な気分なもの達で缶ビールをのみ盛り上がる。
翌日。
今年の初め、電話で訃報を伝えられた。
小学校からの付き合いで、共に腹が痛くなるほど笑いあい、旅してまわり、夢をかたりあった男の訃報。この男の事はまたいつか改めて書けたらとおもう。
こういうことは、それぞれがそれぞれに、自分のやり方で受け入れて、決着をつけていくものなんだとおもう。が、わけがわからなさすぎる。それでみんなで、昔集まってたみたいに、浜辺にいって火をたこうということになった。
10数人集まった、先生もきてくれた。みんな笑ってた。ずっと笑ってた。浜辺に笑い声が絶えなかった。この感じ、いっつもあんたが求めてた感じや、すげーね、いかったね、羨ましくもおもった。子供もいるのに、大人の方がはしゃいでた。みんな笑って、あん人も笑ってた。夕暮れはきれいで優しかった。海と空が合わさってた。出来すぎなくらい穏やかで、どこまでもみえた。花火もした。打ち上げ花火をみんなで見上げて、星がたくさんでてることに気付いた。星がすげーねってみんなでながめた。
誰からともなく、ふざけだしてまた笑った。女子が氷を投げつけて、男子が逃げてた。
ほんとずっと笑ってた。
夜も更けて、また集まろうやっていって、帰った。
つづく。
8月、10日間ほど宮崎に帰った。
この度は都合により、そんな宮崎滞在を思いつくままに書きたいとおもう次第です。時間がないのよね。言い訳失礼。
大同窓会、
大同窓会とはこれ、高校の時の同窓会なのだが、我が高校に代々伝わる同窓会で、星遊会と銘打ち、代々、その年の仕切る年代が受け継がれていくシステム。
今年は、27期生、うちらの代であった。
地元にいる友らは実行委員として資金を集めたり、企画を考えたり、週に一度集まってはその一日のために動いていた。
正直な話、はじめはやはりこれ、家族があったり、仕事があったりでのことなので、大変そうであった。自分も電話にて、歌をつくってライブする旨を伝えられた。
「でも、ライブやらが入ったら、行けないけどね」と一応のエクスキューズをむにゃむにゃ伝えると。「へーそんなもんけ、絶対にスケジュールを空けてくれって言いよるっちゃけど」といつもにこやかな友から念を押され、なるほどこれはおおごとだなと、スケジュールを約束した。
帰郷し、その準備にも顔をだし、「何すればいいとー何すればいいとー」なんて、ゼンマイ仕掛けのオモチャのようになっていると「やることは自分でみつけて」と怒られる。
37にもなり、同級生に怒られるとグッとくるものがある。これはみんな真剣であるなぁと、やること見つけとりかかる。
役所で働いている友達と、当日歌ううたに合わせて映し出す写真の打ち合わせをする。「役所仕事」なんて言葉があるが、この友達の仕事ぶりは、非常に柔軟でアイディアに溢れていて、おおーっとなり、当日がさらに楽しみになる。
翌日はテレビやラジオに出て、同窓会と兄弟ライブの宣伝活動。
同窓会本番、お昼から準備やらリハーサル。おおー久しぶりーってのも二の次で、みんな段取りよく凛々しく進行に努める。
開場の時間になり、僕と、高校時代、漫才の相方だった本田誠人と、学ランとセーラー服といういでたちで、歴代の先輩や後輩を受け付けの前で迎え入れる。
自分は学ランの方であった。誠人のセーラー服に比べキャラクター的に意外とフツーであったためか、非常に中途半端な心もちで、終始モジモジ君であった。
会が始まり、ホテルの大会場は騒がしく盛り上がっている。
自分の歌う番が近くなると、いつもと違う緊張をする。
各テーブルは久しぶり~の会話で盛り上がっている。
こういった場合、まったく聞く耳をもたれない可能性がありまくる。
自分は会のクライマックスを任されており、同級生が一年かけて作り上げてきたものをぶち壊すかもしれない、かもしれないが、ここはなにが何でも大成功を納めなければならないとおもうと、緊張がさらにました。
「聞けよこの野郎~」なんてことも言わないといけないかもなぁなんていろんなシュミレーションをしていると、出番になり、ステージにあがった。
照明が消され、ピンスポがあたる、会場中が一気に自分に集中しライブは心配したこととは逆に盛り上がり、アンコールまであり、誠人や同級生の演出、段取りが一つになり大成功となった。
大成功となった大同窓会は終わり、その日は朝まで飲み、またしても携帯電話をなくし、同級生に迷惑をかける。
「首からさげとくように」と母にストラップをもらい怒られる。またしても情けない気分になり、言われたとおり携帯を首からさげる。
翌日は小学校のタイムカプセルが30年ぶりにあけられた。
小1の自分との対面にドキドキしたが、作文、絵、手形。どれも訳もわからずやらされてる感満載の、やる気のないものばかりでがっかりする。
手形などは指が8本あり、作文も原稿用紙の半分も書いておらず、「王選手になりたい」でしめくくられていた。もう少し何かあっただろうと、心の中で小1の自分に「ちゃんとやれ」とつぶやいた。
そのあと、残念な気分なもの達で缶ビールをのみ盛り上がる。
翌日。
今年の初め、電話で訃報を伝えられた。
小学校からの付き合いで、共に腹が痛くなるほど笑いあい、旅してまわり、夢をかたりあった男の訃報。この男の事はまたいつか改めて書けたらとおもう。
こういうことは、それぞれがそれぞれに、自分のやり方で受け入れて、決着をつけていくものなんだとおもう。が、わけがわからなさすぎる。それでみんなで、昔集まってたみたいに、浜辺にいって火をたこうということになった。
10数人集まった、先生もきてくれた。みんな笑ってた。ずっと笑ってた。浜辺に笑い声が絶えなかった。この感じ、いっつもあんたが求めてた感じや、すげーね、いかったね、羨ましくもおもった。子供もいるのに、大人の方がはしゃいでた。みんな笑って、あん人も笑ってた。夕暮れはきれいで優しかった。海と空が合わさってた。出来すぎなくらい穏やかで、どこまでもみえた。花火もした。打ち上げ花火をみんなで見上げて、星がたくさんでてることに気付いた。星がすげーねってみんなでながめた。
誰からともなく、ふざけだしてまた笑った。女子が氷を投げつけて、男子が逃げてた。
ほんとずっと笑ってた。
夜も更けて、また集まろうやっていって、帰った。
つづく。
2010年7月27日火曜日
Vol.126「夏のおもひで」の巻
2010、夏。アッつい夏、いかがお過ごしか。
夏はやっぱり好きやし、冬の間に何度想ったか。
んが、今年の夏はどうやら楽しく付き合うために自己管理も必要なご様子です。
あっちーからね。
この猛暑の中、よぎる思い出がある。
大学時代、友達に誘われ警備員のバイトをはじめた。
あの、工事中の道に立ち、赤い棒をふり、車を誘導する仕事。
これ仕事なんてのは、それぞれに大変なものなのであろうから、一番なんて軽々しく言えないだろうけど、自分が経験した中でいえば、一番キツイ仕事だった。
未だこの世の中で自分が尊敬する仕事のトップに位置する仕事だ。
例えば体力的にキツイ仕事だったり、机仕事にしても、何かしらやった感てのは、体のどこかに見つけられるとおもうのだが、20才そこそこで力がありあまってたせいか、非常にキビシクおもえた。
一晩中、車のこない山の中で、万が一、車が来た場合、「通れません」と知らせる係。
工事現場からも遠く離れているため真っ暗で音もない中、一人で立ってる仕事。
もともと落ち着きがないほうなので、むいてない仕事な上に、これはしんどかった。
どこかで見た警備員の人形が棒をふってるのを思い出し、人形でいいんじゃないかとおもったりして。
んが、その友達とタッグを組み、あちら側とこちら側にわかれて、こっちが車をながすときは、あっちが止めて、あちらがながす時はこっちが止めてを繰り返す。それをトランシーバーを使ってやる時は忙しく、退屈もしのげた。
「黒のスカイライン、一台とおりまーす、どーぞ」なんつって、やりとりをして、飽きてくると運転手にあだ名をつけたり、ナンバーの数字を当てたり、あちら側に向かって物まねをして、なんの物まねか当て合いっこをしたりしておもしろかった。(余談だが、この時に自分がしてた物まねがロバート・デニーロの物まねで、数年前にお笑い芸人の人がやっているのを観て、着眼点が一緒やと、嬉しくおもったりした。 自分のは全く似てないけど)
そんで、連日の猛暑で思い出すんだけど、真っ盛りの夏、交通量の多い道路で連日、棒を振った。
ギラギラ太陽、アスファルトからの照り返しに排気ガス。時間が猛ーーーーーーー烈
に長く感じた。
若さも、落ち着きがないのも、精神力の弱さも手伝い、耐えられないなこりゃと壊れそうになった。
どうにかおもろいことはないかと、昼に弁当を食べながら考え、割り箸をポケットに忍ばせ、炎天下の現場にもどった。
再び耐えられんなこりゃとなった。そうなったところで一か八かの勝負に出た。
来た車をとめて、背中をむけ、相方のゴーサインを待つ。待ってる間に先ほどの半分に折った割り箸を鼻と口に差す、ドジョウすくいの踊りをやる時のあれだ。
相方からの「そちらから車ながしてよし」のゴーサインが出たとこで振り向き車を流す。さりげなく僕の鼻には割り箸がささっており、気付いた人は車の中で笑っていた。
車の中で笑ってる人をみて、僕は何かこう一つの達成感をおぼえた。
んが、なるべくのポーカーフェイスを整え、任務を遂行した。
どうぞご自由におもちください的な感覚で務めた。おもしろいとおもう人だけどうぞご自由にといった心もち。
それでも時々、調子にのってしまい、心が笑わせようとし、見返りを求めた時などには、逆に不愉快な顔をされたり、「面白いとおもってんの?」的なジェスチャーをされたりもした。
鼻と口に割り箸をさしたまんま、いろんな反応を冷静に眺めた。ふざけたことをしているのだから、気をぬくとただのおふざけになるんだなぁとおもったし、排気ガスと汗で真っ黒に汚れても、自分の中に品をもてるかどうかで割り箸の意味合いがかわってくること。どちらにしてもふざけたことをやっているのだから、ふざけたことに変わりはないが、そこにはおおきな境界線があった。
こういうことがあったらどう? ありえることだよねっていう、ただの提示の範囲でやる。心のもちようで反応がかなり変わるんだなぁとおもった。
おもしろかったし、勉強にもなった。連日の猛暑でおもいだす体の記憶がこんなことでどうしたものかともおもうが、それだけ多くの発見があった。炎天下の道路の上が地球の真ん中におもえ、割り箸一つでその道路に愛着も湧き、自分がこの道路を守ってるんだという意識が強くなった。
夏休みが終わり、大学がはじまった。
講義にいくと、先生が夏休みの体験を発表させはじめた。生徒が挙手をし、それぞれの夏休みの体験を述べる。僕は道路でのことをおもいだしていたが、わざわざ言うことではないと、なるべく目立たないように、みんなの発表をきいていた。
外国にいきホームステイをしたことなどが、次々に発表されていき、それを聞いているうちに、ひがみ根性もあったのだろうが、そのただの報告に、なにやら腹がたってきた。だので最後の最後に手をあげて道路上のことを発表した。
「現場のおじさん達のこと」「すれ違う車のこと」「道路沿いの花屋さんのおねぇさんと夕焼けがきれいだったこと」「割り箸のこと」自分なりの道路上での発見やドラマチックに感じたことを発表した。
発表し終わったあと、やらかしてる感もあったが、発表してよかったともおもった。
あの時期、本をよんだり、映画をみたり、音楽をきいたり、なるべく多くのことを知りたがってもいたし、知った上で、同じくらいに、世の中にあるパターン、自分の中にあるパターンを自分なりにどうぶっ壊していけるか探してた夏だった。
ミミズをカラカラにする太陽に焼かれ、都会の排気ガスの中にいるとおもいだす。どうしようもなく、くだらなく、ちっぽけな中にも新しい発見がたくさんあったこと。
連日猛暑、街中で、立っている警備員さんをみると、頭がさがる。僕には割り箸まで使わないと得られなかった発見と充実感てのが、割り箸なしでもやっぱりあるんだろうな。炎天下での交通誘導、大変な仕事です。しかし残念なことに、もしも今、この炎天下、振り向いた警備員さんの鼻と口に割り箸がささっていたら、僕はもう……僕は、イラっとしてしまうに違いないです。あのとき、平塚~秦野の道路にて、いろんな反応を見せてくれた通行中のみなさんどうもありがとう。
そんな警備員さんには悪いけんども、ビバ!夏!焼け焼け太陽、我のパターンをぶっ壊せ!
そんな2010年、真っ盛りの夏です。エブリバデ、みんなの夏休みの友が色とりどりになりますように!よい夏を!
夏はやっぱり好きやし、冬の間に何度想ったか。
んが、今年の夏はどうやら楽しく付き合うために自己管理も必要なご様子です。
あっちーからね。
この猛暑の中、よぎる思い出がある。
大学時代、友達に誘われ警備員のバイトをはじめた。
あの、工事中の道に立ち、赤い棒をふり、車を誘導する仕事。
これ仕事なんてのは、それぞれに大変なものなのであろうから、一番なんて軽々しく言えないだろうけど、自分が経験した中でいえば、一番キツイ仕事だった。
未だこの世の中で自分が尊敬する仕事のトップに位置する仕事だ。
例えば体力的にキツイ仕事だったり、机仕事にしても、何かしらやった感てのは、体のどこかに見つけられるとおもうのだが、20才そこそこで力がありあまってたせいか、非常にキビシクおもえた。
一晩中、車のこない山の中で、万が一、車が来た場合、「通れません」と知らせる係。
工事現場からも遠く離れているため真っ暗で音もない中、一人で立ってる仕事。
もともと落ち着きがないほうなので、むいてない仕事な上に、これはしんどかった。
どこかで見た警備員の人形が棒をふってるのを思い出し、人形でいいんじゃないかとおもったりして。
んが、その友達とタッグを組み、あちら側とこちら側にわかれて、こっちが車をながすときは、あっちが止めて、あちらがながす時はこっちが止めてを繰り返す。それをトランシーバーを使ってやる時は忙しく、退屈もしのげた。
「黒のスカイライン、一台とおりまーす、どーぞ」なんつって、やりとりをして、飽きてくると運転手にあだ名をつけたり、ナンバーの数字を当てたり、あちら側に向かって物まねをして、なんの物まねか当て合いっこをしたりしておもしろかった。(余談だが、この時に自分がしてた物まねがロバート・デニーロの物まねで、数年前にお笑い芸人の人がやっているのを観て、着眼点が一緒やと、嬉しくおもったりした。 自分のは全く似てないけど)
そんで、連日の猛暑で思い出すんだけど、真っ盛りの夏、交通量の多い道路で連日、棒を振った。
ギラギラ太陽、アスファルトからの照り返しに排気ガス。時間が猛ーーーーーーー烈
に長く感じた。
若さも、落ち着きがないのも、精神力の弱さも手伝い、耐えられないなこりゃと壊れそうになった。
どうにかおもろいことはないかと、昼に弁当を食べながら考え、割り箸をポケットに忍ばせ、炎天下の現場にもどった。
再び耐えられんなこりゃとなった。そうなったところで一か八かの勝負に出た。
来た車をとめて、背中をむけ、相方のゴーサインを待つ。待ってる間に先ほどの半分に折った割り箸を鼻と口に差す、ドジョウすくいの踊りをやる時のあれだ。
相方からの「そちらから車ながしてよし」のゴーサインが出たとこで振り向き車を流す。さりげなく僕の鼻には割り箸がささっており、気付いた人は車の中で笑っていた。
車の中で笑ってる人をみて、僕は何かこう一つの達成感をおぼえた。
んが、なるべくのポーカーフェイスを整え、任務を遂行した。
どうぞご自由におもちください的な感覚で務めた。おもしろいとおもう人だけどうぞご自由にといった心もち。
それでも時々、調子にのってしまい、心が笑わせようとし、見返りを求めた時などには、逆に不愉快な顔をされたり、「面白いとおもってんの?」的なジェスチャーをされたりもした。
鼻と口に割り箸をさしたまんま、いろんな反応を冷静に眺めた。ふざけたことをしているのだから、気をぬくとただのおふざけになるんだなぁとおもったし、排気ガスと汗で真っ黒に汚れても、自分の中に品をもてるかどうかで割り箸の意味合いがかわってくること。どちらにしてもふざけたことをやっているのだから、ふざけたことに変わりはないが、そこにはおおきな境界線があった。
こういうことがあったらどう? ありえることだよねっていう、ただの提示の範囲でやる。心のもちようで反応がかなり変わるんだなぁとおもった。
おもしろかったし、勉強にもなった。連日の猛暑でおもいだす体の記憶がこんなことでどうしたものかともおもうが、それだけ多くの発見があった。炎天下の道路の上が地球の真ん中におもえ、割り箸一つでその道路に愛着も湧き、自分がこの道路を守ってるんだという意識が強くなった。
夏休みが終わり、大学がはじまった。
講義にいくと、先生が夏休みの体験を発表させはじめた。生徒が挙手をし、それぞれの夏休みの体験を述べる。僕は道路でのことをおもいだしていたが、わざわざ言うことではないと、なるべく目立たないように、みんなの発表をきいていた。
外国にいきホームステイをしたことなどが、次々に発表されていき、それを聞いているうちに、ひがみ根性もあったのだろうが、そのただの報告に、なにやら腹がたってきた。だので最後の最後に手をあげて道路上のことを発表した。
「現場のおじさん達のこと」「すれ違う車のこと」「道路沿いの花屋さんのおねぇさんと夕焼けがきれいだったこと」「割り箸のこと」自分なりの道路上での発見やドラマチックに感じたことを発表した。
発表し終わったあと、やらかしてる感もあったが、発表してよかったともおもった。
あの時期、本をよんだり、映画をみたり、音楽をきいたり、なるべく多くのことを知りたがってもいたし、知った上で、同じくらいに、世の中にあるパターン、自分の中にあるパターンを自分なりにどうぶっ壊していけるか探してた夏だった。
ミミズをカラカラにする太陽に焼かれ、都会の排気ガスの中にいるとおもいだす。どうしようもなく、くだらなく、ちっぽけな中にも新しい発見がたくさんあったこと。
連日猛暑、街中で、立っている警備員さんをみると、頭がさがる。僕には割り箸まで使わないと得られなかった発見と充実感てのが、割り箸なしでもやっぱりあるんだろうな。炎天下での交通誘導、大変な仕事です。しかし残念なことに、もしも今、この炎天下、振り向いた警備員さんの鼻と口に割り箸がささっていたら、僕はもう……僕は、イラっとしてしまうに違いないです。あのとき、平塚~秦野の道路にて、いろんな反応を見せてくれた通行中のみなさんどうもありがとう。
そんな警備員さんには悪いけんども、ビバ!夏!焼け焼け太陽、我のパターンをぶっ壊せ!
そんな2010年、真っ盛りの夏です。エブリバデ、みんなの夏休みの友が色とりどりになりますように!よい夏を!
2010年6月27日日曜日
Vol.125「梅雨、カミナリ」の巻
むしむし暑い夏がほらほらきたぞー。梅雨は今にも大洪水、泣き出しそうになる喉の奥が締まる感じをずっとやってるようで、曇ってばかり。
37になりました。ピッカピッカの人生37年生、ピッカピッカです。さすがに全部がピッカピッカではいられないようでありますが、ピカピカです。しかしここまできたら、イメージするのはギンギンギラギラのジジィ。73歳くらいの日焼けした肌のしわくちゃのギョロギョロジジィ。憧れます。はやくなりたひ。
いかがおすごしか。
6月9日、代官山晴れたら空に豆まいてにて、竹原ピストル氏と遠藤賢司さんと共演させてもらった。ピストル氏は10年ほど前、仙台のゼップだったかライブハウスにて、自分等が一番目の出番の前、前座で出演していたのが、初見で、出番前にソデからみていたのだが、それまでタイバンしてきた誰より圧倒的なパワーを感じ、心盛り上がり自分等の出番にも影響をもらったことをおぼえてる。んだからして、それから何度かのタイバンはいつも楽しみで、今回も共演できて嬉しかった。やっぱりピストル氏はかっこいい。
エンケンさんは、自分が十代後半の頃、「フォーク年鑑」というテレビ番組を観たのが初めてだった。70年代のフォークシンガー達の演奏や思想や時代背景を紹介していたのだが、懐かしい的な雰囲気の番組の中で、一人だけ様子の違う人がおり、四畳半一間にてギターとハモニカをかき鳴らし、吹き飛ばしていた。曲は自作の70年代につくられた曲なのに、その画面からはみでてくる迫力は、「今」 でしかなかった。
人間の爆発、心の激しさがギターとハモニカと歌が一緒になって噴き上がっていた。
長渕剛の歌を聴き、フォークソングに興味をもち、そこにエンケンさんはいた。
そのテレビの中でエンケンさんは、みんなと同じように、ボブ・ディランをラジオで聴いて電気が走ったと語っていたが、ボブ・ディランを聴いても走らなかった電気が、エンケンさんをみて走った。たくさん音楽がある世の中で、衝撃的な出会いだった。
当時のカミナリが目の前にいるようなものだ。
自分がこうして歌い続けてきた、はじめの加速をくれた人の一人だ。
微塵の懐かしさもなく、今を爆発させ続けてきた人の強さがあった。
今の中に、音楽の中にこそ永遠が光ってる。エンケンさんは純音楽をやっていると自分でうたっているが、その意味がわかる感じだ。エンケンさんは一人でバンドをやっているようにみえる。しかもパンクバンド。60歳を超えて、ひとりでパンクバンドをやり続けてる。個人の宇宙、生ギターのホールから無限のグルーブが会場を包む。
十代の頃、エンケンさんの「夜汽車のブルース」という歌に感化され、「ワンウェイトリップ」という歌を作った。
畑の真ん中や路上で歌ってただけの自分が、ライブハウスと呼ばれる場所で、できるはずもないと思っていたころ、後輩がライブハウスのオーディションに合格したと聞き、「なにをー!」となり、自分もその歌でフォーク喫茶のオーディションを受け、合格した。何かが前進したきっかけをくれた曲になった。
何かこう、ああだこうだと考える前に、爆発、生の実感。エンケンさんや70年代のフォークシンガー達が僕にくれたメッセージは「自分を歌え!」だった。
その夜、エンケンさんには十代の頃にもらったカミナリというよりも、国宝的なものを感じ、自分のまだまだ感をさらに感じた次第だ。大きな波が来た時に波にのれるか、波にのまれるか。こちら側の体勢で大きくかわる。その夜、やっぱり大きな波を肌で感じた。
同じステージに立つのだし、もらったもんはかえしたいとおもうものの、リハーサルの雰囲気からして、神々しくみえ、またなにか大きなもんをもらってしまった感じだった。
今までも、何度も大きな波にのったり、殴られもしてきた。その度、結局はいつも、自分は自分の事を、やれるだけやるしかないってな当たり前なことにいきつき、よりもっと自分であり続けたいとさらに強くおもわせてくれる。そんな夜だった。10代の頃もらった衝撃がアッパーで頭ぶっ飛ぶ感じだとしたら、今回はみぞおち一発くらったような衝撃で後までジワジワときいてくる感じだった。どちらにしても、新しい波を自分の肌で感じることができるのは、自分にとって喜びです。十代の頃にカミナリをもらった人との奇跡的な夜、その人がさらにずっと先を走り続けていることを体感した夜。この経験を吸収し、自分は、より自分の歌を歌い、自分の理想のギンギンギラギラ波乗りジジィになれたらとおもう次第。
そういうことに触れるたび、体は勝手にバトンをもらってる。さざ波眺めるのも好きだけど、やっぱり自分は、高い波に出会えることが幸せなことです。心殴ってくれる友達や先輩や後輩や。2010年波高し、いつもこっから先が楽しみな37才、幸せもんであります。
よい夏を!
P.S.日本の若者の音楽雑誌のネット連載ということで、あえていいますがよ、日本の音楽、フォークやロックの歴史の中には、時代を越えてビカビカ光っている人達がおるよ。そういうものに出会えた時の喜びでかく、なんかが広がりまっせ。
今好きな音楽のバトンやル-ツをたどっていくのもおもろいかもだ。
歌は世につれ、世は歌につれとあるが、また音楽は古いも新しいもなく時代を越えてくものよね。
新しいものは過去の中にもあるわよ、なんつって自分は何をしていようが、そういうものをつくっていきたいとおもう次第です。
37になりました。ピッカピッカの人生37年生、ピッカピッカです。さすがに全部がピッカピッカではいられないようでありますが、ピカピカです。しかしここまできたら、イメージするのはギンギンギラギラのジジィ。73歳くらいの日焼けした肌のしわくちゃのギョロギョロジジィ。憧れます。はやくなりたひ。
いかがおすごしか。
6月9日、代官山晴れたら空に豆まいてにて、竹原ピストル氏と遠藤賢司さんと共演させてもらった。ピストル氏は10年ほど前、仙台のゼップだったかライブハウスにて、自分等が一番目の出番の前、前座で出演していたのが、初見で、出番前にソデからみていたのだが、それまでタイバンしてきた誰より圧倒的なパワーを感じ、心盛り上がり自分等の出番にも影響をもらったことをおぼえてる。んだからして、それから何度かのタイバンはいつも楽しみで、今回も共演できて嬉しかった。やっぱりピストル氏はかっこいい。
エンケンさんは、自分が十代後半の頃、「フォーク年鑑」というテレビ番組を観たのが初めてだった。70年代のフォークシンガー達の演奏や思想や時代背景を紹介していたのだが、懐かしい的な雰囲気の番組の中で、一人だけ様子の違う人がおり、四畳半一間にてギターとハモニカをかき鳴らし、吹き飛ばしていた。曲は自作の70年代につくられた曲なのに、その画面からはみでてくる迫力は、「今」 でしかなかった。
人間の爆発、心の激しさがギターとハモニカと歌が一緒になって噴き上がっていた。
長渕剛の歌を聴き、フォークソングに興味をもち、そこにエンケンさんはいた。
そのテレビの中でエンケンさんは、みんなと同じように、ボブ・ディランをラジオで聴いて電気が走ったと語っていたが、ボブ・ディランを聴いても走らなかった電気が、エンケンさんをみて走った。たくさん音楽がある世の中で、衝撃的な出会いだった。
当時のカミナリが目の前にいるようなものだ。
自分がこうして歌い続けてきた、はじめの加速をくれた人の一人だ。
微塵の懐かしさもなく、今を爆発させ続けてきた人の強さがあった。
今の中に、音楽の中にこそ永遠が光ってる。エンケンさんは純音楽をやっていると自分でうたっているが、その意味がわかる感じだ。エンケンさんは一人でバンドをやっているようにみえる。しかもパンクバンド。60歳を超えて、ひとりでパンクバンドをやり続けてる。個人の宇宙、生ギターのホールから無限のグルーブが会場を包む。
十代の頃、エンケンさんの「夜汽車のブルース」という歌に感化され、「ワンウェイトリップ」という歌を作った。
畑の真ん中や路上で歌ってただけの自分が、ライブハウスと呼ばれる場所で、できるはずもないと思っていたころ、後輩がライブハウスのオーディションに合格したと聞き、「なにをー!」となり、自分もその歌でフォーク喫茶のオーディションを受け、合格した。何かが前進したきっかけをくれた曲になった。
何かこう、ああだこうだと考える前に、爆発、生の実感。エンケンさんや70年代のフォークシンガー達が僕にくれたメッセージは「自分を歌え!」だった。
その夜、エンケンさんには十代の頃にもらったカミナリというよりも、国宝的なものを感じ、自分のまだまだ感をさらに感じた次第だ。大きな波が来た時に波にのれるか、波にのまれるか。こちら側の体勢で大きくかわる。その夜、やっぱり大きな波を肌で感じた。
同じステージに立つのだし、もらったもんはかえしたいとおもうものの、リハーサルの雰囲気からして、神々しくみえ、またなにか大きなもんをもらってしまった感じだった。
今までも、何度も大きな波にのったり、殴られもしてきた。その度、結局はいつも、自分は自分の事を、やれるだけやるしかないってな当たり前なことにいきつき、よりもっと自分であり続けたいとさらに強くおもわせてくれる。そんな夜だった。10代の頃もらった衝撃がアッパーで頭ぶっ飛ぶ感じだとしたら、今回はみぞおち一発くらったような衝撃で後までジワジワときいてくる感じだった。どちらにしても、新しい波を自分の肌で感じることができるのは、自分にとって喜びです。十代の頃にカミナリをもらった人との奇跡的な夜、その人がさらにずっと先を走り続けていることを体感した夜。この経験を吸収し、自分は、より自分の歌を歌い、自分の理想のギンギンギラギラ波乗りジジィになれたらとおもう次第。
そういうことに触れるたび、体は勝手にバトンをもらってる。さざ波眺めるのも好きだけど、やっぱり自分は、高い波に出会えることが幸せなことです。心殴ってくれる友達や先輩や後輩や。2010年波高し、いつもこっから先が楽しみな37才、幸せもんであります。
よい夏を!
P.S.日本の若者の音楽雑誌のネット連載ということで、あえていいますがよ、日本の音楽、フォークやロックの歴史の中には、時代を越えてビカビカ光っている人達がおるよ。そういうものに出会えた時の喜びでかく、なんかが広がりまっせ。
今好きな音楽のバトンやル-ツをたどっていくのもおもろいかもだ。
歌は世につれ、世は歌につれとあるが、また音楽は古いも新しいもなく時代を越えてくものよね。
新しいものは過去の中にもあるわよ、なんつって自分は何をしていようが、そういうものをつくっていきたいとおもう次第です。
2010年5月27日木曜日
Vol.124「ロックオンザロック」の巻
緑モクモク、ココペリ吹いたか木々達が濃ゆく葉を揺らす今日この頃、いかがおすごしか。ようやく来たね初夏。
最近は、空気も乾いてて、蚊もいなく非常にすごしやすく、なんつったってフェス日和じゃないですか。
っつうわけで5月22日、愛知で行われた野外ロックフェス、ロックオンザロックについて。
ちようど10年前デビューをし、学校出前ツアーと題し愛知の学校や、老人ホームやらをライブしてまわり、愛知県に2週間ほど滞在した。デビューであるからして渋谷の大画面にプロモーションビデオが流されている時に、本人達は愛知の町をドサまわりしていた。
そこで出会った人や自然は強烈で、濃ゆい時間をすごした。その時宿泊の拠点にしてたのが、今回のロックオンザロックの会場近くだっ た。
静かな海と優しい風、ライブの合間には浜辺でギターを弾いたり、釣りをしたり、たき火をしたり。
満月の浜辺に立ち、なんともいえない気持ちになったりした。
そんな思い入れのある場所だったからこそ、そこで行われるロックフェスに出場が決まり、またあの海や風に会えると非常に嬉しかった。
当日の早朝に出発し、車にて会場へ向かう、高速道路スイスイ、あっちゅうまに愛知につき、会場が近くなるにつれテンションがあがる。特に10年前に共にそこに滞在したベースのkと車の一番後ろから、ナビを無視して「あーここ、ここきたね、あーここ左まがるんだわ、あのサークルkを左や」「そやそや」ってな具合にはしゃぎ、しかも、そのどれもが外れており、他のメンバーのうざいこいつら的な失笑もあったが、それでも会場に近くなるにつれ、みんなでヤッホーになる。
会場に早めにつき、楽屋に案内されメンバーでしばし、なごむ。畳に寝っ転がったり、ベランダにでたりしながら、風が海からやってきて部屋の中のぼくらを優しく撫でる。
吹かれる度に懐かしい感覚を思い出す。なんとも完璧な心地よさに、しばし身をゆだねぼーっとする。あー完璧やと。同時にほーらやったるでーっと燃えてくる。
そうこうしてるうちに地元和太鼓が始まり、スクービードゥーが始まりしばし楽屋からみる。やったるでーとますますワクワクする。
ステージ裏にいき弦を張り替え、その時を待つ。こういう瞬間が好きだ。
昔、路上で弾き語りしてたときも、ライブハウスでやるときも、自分が立つステージを眺め、会場の空気を体にいれる。どんどんワクワクしてくる。どんな場所であっても同じようにワクワクする。戦場のようでもあるし、贅沢な遊び場でもある。目には見えないけど空気が変わる。自分がここに生きてることをより実感できる場所を眺める。
おーいぇー、いよいよリハーサルがはじまる。野外なのでそのまま会場中にリハーサルが流れる、リハーサルではあるが、人が集まり踊り始める。それをみてこちらも即興演奏に入り、リハーサルについて歌う。リハーサルの掛け合いで盛り上がり、そのまま本番に突入したいとこだが、いっぺん引っ込みいざ本番。
ガツンと今までの自分等をみせた。それぞれの今まで歩いてきた道の塊だ。空には大きなトンビだかワシだかが孤を描き、山は大きく、海はでかかった。そこで相変わらず僕は自分を歌った。今までやってきた自分の歌だ。気持ちよかったし、おもろかった。が、それだけでなく、小さい自分も感じた。毎度のことではあるけれど、だからまた次にいける。空はやっぱり広かった。
ライブ終了し、共に駆け抜けたメンバーとビールで乾杯した、風がまたやさしく感じ、他の出演者のステージを観た、ダチャンボがかっこよかった。
夕暮れ時には海沿いにあるバーベキュー会場にいき、メンバーと肉を焼いた。
海で子供が竹で作った小さなイカダを一生懸命、海に流そうとするが、波におしもどされ、なんどもトライしてる姿をみてグッときた。
緩やかな時間の中メンバーとしゃべりながら、なにやら腕がチクチクするので、草でもついたかと、話しながら手で掴みはがそうとしたらゴムのように伸びてはがれなかったので、見てみるとそれは、なんと、おーマイガッド、ムカデであった。頭一瞬、静寂になり、手をはなしムカデが僕の腕の裏側にまわっていったのを見届けてからようやく、うぎゃー!っとなり上着を脱ぎ裸になり、ムカデ!ムカデ! と大騒ぎ。
自分はワイルドなので虫などは平気な方なのだが、ムカデはだめだ。また自分はハードボイルドでもあるので弱点を公の場で発表するのもどうかとおもうが、しかし、あのムカデはだめだ。
小さい頃、家によくアリが出て、たどっていくと家のそとの壁に巣があって、撃退するべと巣の中にフマキラーをまいたら穴の中からヤツがあわてて出てきた。黄色と赤と黒の光沢のあるムカデ。その時もうぎゃー!となった。ってせっかくの思い出がヤツに占領されてしまうので、もう書くのをやめるが、あれはいけない。
とまぁそんなこともあり、部屋に戻り打ち上がりまた自分等のビデオ観ながら、あそこがもっととか、なんだかんだいいながら次へと向かうべく反省会などもし、深夜になり、海を見にいこうぜとなり、海を見にいった。
この時期に見える夜光虫が見たくてテンションあがる。プランクトンのようなもので、石をなげると波紋が広がるが、その波紋が青っぽく蛍光色に光る。暗い中で静かな波の音とその光はやはりきれいだった。メンバーとしばしそれを眺めた後、部屋にもどり就寝。
翌日、帰京したが、朝から天気はうってかわって暴風雨となり、二日目のフェスは中止が発表された。一年このフェスを成功させるべく動いてきたスタッフや楽しみにしてきたお客さん、ボランティアの人たちをおもうと、自然が相手だからとはいえ、1日目に出させてもらいその雰囲気が素晴らしかっただけに、非常に残念だし、無念さははかりしれんものがある。雨風の中、自分たちの出させてもらったイベントの撤収が連日行われたと聞いた。はがゆくも来年また、あの場所に緩やかで優しく力強い、音楽の祭典が開かれることを願うしかない。
10年前には何もなかった場所で、誰かの思いつきや願いが時間をかけてゆっくりとでっかくなり、続いていく。激しかったり、優しかったりの自然の中で、そこには、スタッフやお客さんや出演者でつくる人間の熱、ぬくもりがあった。どんな立場であれ参加した人みんな、自然の中での祭りごとは過酷でもあるが、その分、得るもんが無限大な気もして、参加させてもらい本当によかった。自分もいつかこんな祭りごとやらかしてみたいともおもった次第だ。
肌で感じたあの風は、きっとこれからの自分等にまた違った景色をみせてくれることになるだろうとおもう。ロックオンザロック、あの海よ、山よ、風よ、またいつか会える日をだ!
最近は、空気も乾いてて、蚊もいなく非常にすごしやすく、なんつったってフェス日和じゃないですか。
っつうわけで5月22日、愛知で行われた野外ロックフェス、ロックオンザロックについて。
ちようど10年前デビューをし、学校出前ツアーと題し愛知の学校や、老人ホームやらをライブしてまわり、愛知県に2週間ほど滞在した。デビューであるからして渋谷の大画面にプロモーションビデオが流されている時に、本人達は愛知の町をドサまわりしていた。
そこで出会った人や自然は強烈で、濃ゆい時間をすごした。その時宿泊の拠点にしてたのが、今回のロックオンザロックの会場近くだっ た。
静かな海と優しい風、ライブの合間には浜辺でギターを弾いたり、釣りをしたり、たき火をしたり。
満月の浜辺に立ち、なんともいえない気持ちになったりした。
そんな思い入れのある場所だったからこそ、そこで行われるロックフェスに出場が決まり、またあの海や風に会えると非常に嬉しかった。
当日の早朝に出発し、車にて会場へ向かう、高速道路スイスイ、あっちゅうまに愛知につき、会場が近くなるにつれテンションがあがる。特に10年前に共にそこに滞在したベースのkと車の一番後ろから、ナビを無視して「あーここ、ここきたね、あーここ左まがるんだわ、あのサークルkを左や」「そやそや」ってな具合にはしゃぎ、しかも、そのどれもが外れており、他のメンバーのうざいこいつら的な失笑もあったが、それでも会場に近くなるにつれ、みんなでヤッホーになる。
会場に早めにつき、楽屋に案内されメンバーでしばし、なごむ。畳に寝っ転がったり、ベランダにでたりしながら、風が海からやってきて部屋の中のぼくらを優しく撫でる。
吹かれる度に懐かしい感覚を思い出す。なんとも完璧な心地よさに、しばし身をゆだねぼーっとする。あー完璧やと。同時にほーらやったるでーっと燃えてくる。
そうこうしてるうちに地元和太鼓が始まり、スクービードゥーが始まりしばし楽屋からみる。やったるでーとますますワクワクする。
ステージ裏にいき弦を張り替え、その時を待つ。こういう瞬間が好きだ。
昔、路上で弾き語りしてたときも、ライブハウスでやるときも、自分が立つステージを眺め、会場の空気を体にいれる。どんどんワクワクしてくる。どんな場所であっても同じようにワクワクする。戦場のようでもあるし、贅沢な遊び場でもある。目には見えないけど空気が変わる。自分がここに生きてることをより実感できる場所を眺める。
おーいぇー、いよいよリハーサルがはじまる。野外なのでそのまま会場中にリハーサルが流れる、リハーサルではあるが、人が集まり踊り始める。それをみてこちらも即興演奏に入り、リハーサルについて歌う。リハーサルの掛け合いで盛り上がり、そのまま本番に突入したいとこだが、いっぺん引っ込みいざ本番。
ガツンと今までの自分等をみせた。それぞれの今まで歩いてきた道の塊だ。空には大きなトンビだかワシだかが孤を描き、山は大きく、海はでかかった。そこで相変わらず僕は自分を歌った。今までやってきた自分の歌だ。気持ちよかったし、おもろかった。が、それだけでなく、小さい自分も感じた。毎度のことではあるけれど、だからまた次にいける。空はやっぱり広かった。
ライブ終了し、共に駆け抜けたメンバーとビールで乾杯した、風がまたやさしく感じ、他の出演者のステージを観た、ダチャンボがかっこよかった。
夕暮れ時には海沿いにあるバーベキュー会場にいき、メンバーと肉を焼いた。
海で子供が竹で作った小さなイカダを一生懸命、海に流そうとするが、波におしもどされ、なんどもトライしてる姿をみてグッときた。
緩やかな時間の中メンバーとしゃべりながら、なにやら腕がチクチクするので、草でもついたかと、話しながら手で掴みはがそうとしたらゴムのように伸びてはがれなかったので、見てみるとそれは、なんと、おーマイガッド、ムカデであった。頭一瞬、静寂になり、手をはなしムカデが僕の腕の裏側にまわっていったのを見届けてからようやく、うぎゃー!っとなり上着を脱ぎ裸になり、ムカデ!ムカデ! と大騒ぎ。
自分はワイルドなので虫などは平気な方なのだが、ムカデはだめだ。また自分はハードボイルドでもあるので弱点を公の場で発表するのもどうかとおもうが、しかし、あのムカデはだめだ。
小さい頃、家によくアリが出て、たどっていくと家のそとの壁に巣があって、撃退するべと巣の中にフマキラーをまいたら穴の中からヤツがあわてて出てきた。黄色と赤と黒の光沢のあるムカデ。その時もうぎゃー!となった。ってせっかくの思い出がヤツに占領されてしまうので、もう書くのをやめるが、あれはいけない。
とまぁそんなこともあり、部屋に戻り打ち上がりまた自分等のビデオ観ながら、あそこがもっととか、なんだかんだいいながら次へと向かうべく反省会などもし、深夜になり、海を見にいこうぜとなり、海を見にいった。
この時期に見える夜光虫が見たくてテンションあがる。プランクトンのようなもので、石をなげると波紋が広がるが、その波紋が青っぽく蛍光色に光る。暗い中で静かな波の音とその光はやはりきれいだった。メンバーとしばしそれを眺めた後、部屋にもどり就寝。
翌日、帰京したが、朝から天気はうってかわって暴風雨となり、二日目のフェスは中止が発表された。一年このフェスを成功させるべく動いてきたスタッフや楽しみにしてきたお客さん、ボランティアの人たちをおもうと、自然が相手だからとはいえ、1日目に出させてもらいその雰囲気が素晴らしかっただけに、非常に残念だし、無念さははかりしれんものがある。雨風の中、自分たちの出させてもらったイベントの撤収が連日行われたと聞いた。はがゆくも来年また、あの場所に緩やかで優しく力強い、音楽の祭典が開かれることを願うしかない。
10年前には何もなかった場所で、誰かの思いつきや願いが時間をかけてゆっくりとでっかくなり、続いていく。激しかったり、優しかったりの自然の中で、そこには、スタッフやお客さんや出演者でつくる人間の熱、ぬくもりがあった。どんな立場であれ参加した人みんな、自然の中での祭りごとは過酷でもあるが、その分、得るもんが無限大な気もして、参加させてもらい本当によかった。自分もいつかこんな祭りごとやらかしてみたいともおもった次第だ。
肌で感じたあの風は、きっとこれからの自分等にまた違った景色をみせてくれることになるだろうとおもう。ロックオンザロック、あの海よ、山よ、風よ、またいつか会える日をだ!
2010年4月28日水曜日
Vol.123「桜前線歌吹雪ツアー」の巻
寒暖の差が激しい日々、何かおきそうな予感さえしてしまうほど、おかしな天気。こんなことってあったっけなってな日が続く。宮崎ではこの時期、100年ぶりの寒さだったりと、季節が病気みたいで、つられて風邪ひかないようにしなくてはなってな毎日だ。お大事に春。いかがおすごしか。
の、おかげかどうかはわからないが、かろうじて桜、枝に残る中、矢野絢子との桜前線歌吹雪ツアーが終了した。
去年のはじめ、ある人物と酒を飲み、「最近、おもろい歌うたいおりますか?」なんて話になり、相手が答えたのが、矢野絢子だった。
その場で、アイポッドを聞かせてもらい、聞き入った。聞きながら嬉しくなった。
こういう歌うたいがいることが、嬉しく、ワクワクした。
歌がまっすぐで、歌の出どころが、懐かしい感じがした。懐かしい感じとは、自分のなかにも、もともとあったようなものを勝手に感じた。ある部分。全然違うけど、ある部分。
こういう歌うたいと共に歌ってみたいたいなぁとおもった。へぇーなんつってその日は終わったのだが、しばらくたってから、代官山のライブハウス、晴れ豆よりライブのお誘いがあり、共演者が矢野絢子。おぉーっとなり、出演させてもらうことにした。
共演し、やはりピアノと歌と魂が一緒になってドカンで、何かがひずんでいるようでおもろかった。楽屋で話をし、高知出身とのことで、「四国いったことない」「宮崎いったことない」となり、お互いの出身地のブツブツ交換のようにツアーが決まった。
「桜前線歌吹雪ツアー」
宮崎、天空カフェジール、曇りのち雨。山の中にでっかいビニールハウスがある感じのとこで、ゆったりとした時間がながれていた。久々の一人弾き語りということもあり、ちとドギマギしてしまったところもあったが、気持ちよくやれた、スタッフの方々もニコニコで迎えてくれ、平日の山の中、天気も悪かった中、たくさんのエブリバデがみにきてくれた。これには、足を運んでくれたエブリバデにも、そのみんなにライブがあることを知らせてくれたスタッフにもありがとうであった。
透明の屋根を雨が叩く音をききながら歌った。山道をくだり帰る時、野ウサギが横切った。ツアーの始まり。きっと考えてもわからない、よけいなものは旅が洗い流してくれる。ツアーのはじまり。心だけで転がってく感じにいつもわくわくする。
2か所め、延岡。リトルウェザーキング。曇り。
2007年にできた、ライブハウス。入るなり落ち着く。もともと小さい箱でデカイ音を出すというイメージしかなかったライブハウスという場所が、活動のほとんどをそう呼ばれる場所ですごしてきたせいか、体が開いていくのを感じた。スタッフは音や照明を一つ一つ作ってく。
うちらみたいなものは、路上だろうが、タイタニックの上だろうが、どこでも変わらず発信するのが、基本だとおもっているが、やはり共にいいものを作っていこうと共有できるスタッフの人と出会えると、男なのに結婚したくなるのも確かだ。
本番、ライブハウスに入りきれない人の後ろからチロチロ覗いてみたところ、矢野絢子、一曲目から最後まで、激しく、優しく、空気を泳いで気持ちいい発信をしており、客席のみんなの顔も非常にいい顔してた。自分の出番前、緊張に輪をかけたが、地元でこういった空気にできる歌うたいとライブできることが嬉しくおもった次第だ。
あの居酒屋で、この人と友部正人の「愛について」を歌ってみたいとおもったことが、一年後、地元で実現できたことも喜びであった。
ライブ終了後、打ち上げをし、深夜12時すぎに居酒屋の前でたむろしていると、向こうのほうで、おじさん自転車ふらふらで、あぶなっかしーなとみていると、ゆらゆらーガシャン!とぶっ倒れ、立ち上がらない。やばいねとみんなで駆け寄ると、酔っ払っているようで、頭から血がでており、病院ではたらいてるものが、ああしてこうしてと応急処置をし、どうやら大丈夫そうだとなったが、救急車を呼び、目の前がスナックだったのでオシボリを借りようと友達が入っていき、スナックのママさんとでてきた。スナックのママさん、倒れているおじさんをみるなり、「どてちん!」と大きな声で言ったので、その勢いのよさと、そのおじさんのあだ名が「どてちん」だったことが、みょうにはまりみんなで大爆笑をしてしまった。その笑い声でどてちんも意識がもどってきたのか、ねながらゆっくりピースしたり、合掌したりして、ぼくらを笑わせてくれた。ここまでくればだいじょぶやねと、スナックのママとマスターに託し、その場を離れ、遅れてきた救急車に運ばれてくどてちんを遠くから見送った。余談ではあったが、おもしろかったのと、だいじょぶだったと風の便りできいたので記しておく。どてちんって、あだ名選手権があったら、まちがいなくミスターどてちんだろうとおもう。
その後、暗闇で朝4時まで男5人で呑み、2時間眠っていざ四国。
フェリーに乗って四国につきグッとくる。
思えば3年も前よりこの連載でも、今年は四国にいくぞーなんつっていけず終いだったので、ドン曇りではあったが、やっときたでとぐっとくる。
車でおくってもらい、高知に突入し、その道は龍馬が脱藩の際に通った道らしく、喫茶店などのキャッチコピーが「脱藩前の腹ごしらえ」であったのも和ませてくれた。
その日の夜、翌日出演する「歌小屋の2階」にライブを観にいった。
矢野絢子(以下、矢野ちん)曰く、場所の雰囲気も知れるし、みせたいライブがあるとのこと。この歌小屋の2階、矢野ちんが全国で活動しようとも、変わらずホームにしている小屋。歌うたい、表現者がスタッフとして働き、出演もする。みんなで大事にその場を守っている感じだ。キレイな空気が流れてる場所。
そこのドンである、池マサト氏のライブ。一人ひとりのライブが始まる前に、「2010年4月何日、第一ステージ」とナレーションが入る。昔の映画館的な緊張感。客席20席ほど。観る側も緊張をする。一番前に座り時を待つ。ステージの壁には「時として人は人に非ず」と書かれた紙が用意され、池マサト氏のライブがスタート。
ネズミの格好をしており、ネズミの動きで登場し、一切しゃべらず、一点を見つめ歌いだす。ネズミの視点からの歌をうたう。なのにかっこいい。神々しくさえみえる。
これ、小屋の雰囲気も出演者のことも、言葉で伝えるのは難しい。何か人前で発信することをやっている人には、体験してみてほしい場所だとお勧めしたい。
そこで働いてる男子が、「世界の歌小屋」ですからと言ったのも納得する感じだ。
翌日、自分も出た。猛烈に緊張したが、今まで通ってきた道を出す。
自分はこうなんだと、当たり前のことがより、浮き彫りになる場所。
噂には聞いていたが、非常に背筋が伸びる。
翌日、この日だけ晴れた。
高松にいき、ライブ・ツアー最終日。
今までになく空気を泳げた気がした。
高知といい、高松といい、一つのライブに対する感覚が(これは矢野絢子の周りだけかもだが)、非常に文学的な雰囲気を感じた。漠然とだけど70年代の団塊の世代の人達の話で聞いたことのある世界がよぎった。聞き手とやり手がより1対1。
自分としては、今回のツアー、次へいくための、歌ってきたある部分へのけじめのようなものもあったし。四国のお遍路さん的な意味合いもあったようにおもう。
四国を歩くお遍路さん。お大師さんと歩き、気持ちまっすぐに整理するんだろうお遍路さん。自分には必要なタイミングと時間だった。矢野絢子、あのアイポッドから流れた歌のまっすぐは、やっぱりまっすぐだった。自分の何かを叩くようなものと出会い、歌い、ぶつかれたことは、非常にいい経験になった。これからますますの、歌のパワーを信じ、我が道をいき、またどっかで、歌えたらとおもう次第だ。
そして、各場所にて、一つのライブを共につくりあげたり、そこに向けて走りまわってくれたエブリバデ、遠方からも、近くからも足を運んでくれたエブリバデ、ありがとう。
歌吹雪、散ってまた咲くその日まで、ハバナイスエブリデイ、だ。
の、おかげかどうかはわからないが、かろうじて桜、枝に残る中、矢野絢子との桜前線歌吹雪ツアーが終了した。
去年のはじめ、ある人物と酒を飲み、「最近、おもろい歌うたいおりますか?」なんて話になり、相手が答えたのが、矢野絢子だった。
その場で、アイポッドを聞かせてもらい、聞き入った。聞きながら嬉しくなった。
こういう歌うたいがいることが、嬉しく、ワクワクした。
歌がまっすぐで、歌の出どころが、懐かしい感じがした。懐かしい感じとは、自分のなかにも、もともとあったようなものを勝手に感じた。ある部分。全然違うけど、ある部分。
こういう歌うたいと共に歌ってみたいたいなぁとおもった。へぇーなんつってその日は終わったのだが、しばらくたってから、代官山のライブハウス、晴れ豆よりライブのお誘いがあり、共演者が矢野絢子。おぉーっとなり、出演させてもらうことにした。
共演し、やはりピアノと歌と魂が一緒になってドカンで、何かがひずんでいるようでおもろかった。楽屋で話をし、高知出身とのことで、「四国いったことない」「宮崎いったことない」となり、お互いの出身地のブツブツ交換のようにツアーが決まった。
「桜前線歌吹雪ツアー」
宮崎、天空カフェジール、曇りのち雨。山の中にでっかいビニールハウスがある感じのとこで、ゆったりとした時間がながれていた。久々の一人弾き語りということもあり、ちとドギマギしてしまったところもあったが、気持ちよくやれた、スタッフの方々もニコニコで迎えてくれ、平日の山の中、天気も悪かった中、たくさんのエブリバデがみにきてくれた。これには、足を運んでくれたエブリバデにも、そのみんなにライブがあることを知らせてくれたスタッフにもありがとうであった。
透明の屋根を雨が叩く音をききながら歌った。山道をくだり帰る時、野ウサギが横切った。ツアーの始まり。きっと考えてもわからない、よけいなものは旅が洗い流してくれる。ツアーのはじまり。心だけで転がってく感じにいつもわくわくする。
2か所め、延岡。リトルウェザーキング。曇り。
2007年にできた、ライブハウス。入るなり落ち着く。もともと小さい箱でデカイ音を出すというイメージしかなかったライブハウスという場所が、活動のほとんどをそう呼ばれる場所ですごしてきたせいか、体が開いていくのを感じた。スタッフは音や照明を一つ一つ作ってく。
うちらみたいなものは、路上だろうが、タイタニックの上だろうが、どこでも変わらず発信するのが、基本だとおもっているが、やはり共にいいものを作っていこうと共有できるスタッフの人と出会えると、男なのに結婚したくなるのも確かだ。
本番、ライブハウスに入りきれない人の後ろからチロチロ覗いてみたところ、矢野絢子、一曲目から最後まで、激しく、優しく、空気を泳いで気持ちいい発信をしており、客席のみんなの顔も非常にいい顔してた。自分の出番前、緊張に輪をかけたが、地元でこういった空気にできる歌うたいとライブできることが嬉しくおもった次第だ。
あの居酒屋で、この人と友部正人の「愛について」を歌ってみたいとおもったことが、一年後、地元で実現できたことも喜びであった。
ライブ終了後、打ち上げをし、深夜12時すぎに居酒屋の前でたむろしていると、向こうのほうで、おじさん自転車ふらふらで、あぶなっかしーなとみていると、ゆらゆらーガシャン!とぶっ倒れ、立ち上がらない。やばいねとみんなで駆け寄ると、酔っ払っているようで、頭から血がでており、病院ではたらいてるものが、ああしてこうしてと応急処置をし、どうやら大丈夫そうだとなったが、救急車を呼び、目の前がスナックだったのでオシボリを借りようと友達が入っていき、スナックのママさんとでてきた。スナックのママさん、倒れているおじさんをみるなり、「どてちん!」と大きな声で言ったので、その勢いのよさと、そのおじさんのあだ名が「どてちん」だったことが、みょうにはまりみんなで大爆笑をしてしまった。その笑い声でどてちんも意識がもどってきたのか、ねながらゆっくりピースしたり、合掌したりして、ぼくらを笑わせてくれた。ここまでくればだいじょぶやねと、スナックのママとマスターに託し、その場を離れ、遅れてきた救急車に運ばれてくどてちんを遠くから見送った。余談ではあったが、おもしろかったのと、だいじょぶだったと風の便りできいたので記しておく。どてちんって、あだ名選手権があったら、まちがいなくミスターどてちんだろうとおもう。
その後、暗闇で朝4時まで男5人で呑み、2時間眠っていざ四国。
フェリーに乗って四国につきグッとくる。
思えば3年も前よりこの連載でも、今年は四国にいくぞーなんつっていけず終いだったので、ドン曇りではあったが、やっときたでとぐっとくる。
車でおくってもらい、高知に突入し、その道は龍馬が脱藩の際に通った道らしく、喫茶店などのキャッチコピーが「脱藩前の腹ごしらえ」であったのも和ませてくれた。
その日の夜、翌日出演する「歌小屋の2階」にライブを観にいった。
矢野絢子(以下、矢野ちん)曰く、場所の雰囲気も知れるし、みせたいライブがあるとのこと。この歌小屋の2階、矢野ちんが全国で活動しようとも、変わらずホームにしている小屋。歌うたい、表現者がスタッフとして働き、出演もする。みんなで大事にその場を守っている感じだ。キレイな空気が流れてる場所。
そこのドンである、池マサト氏のライブ。一人ひとりのライブが始まる前に、「2010年4月何日、第一ステージ」とナレーションが入る。昔の映画館的な緊張感。客席20席ほど。観る側も緊張をする。一番前に座り時を待つ。ステージの壁には「時として人は人に非ず」と書かれた紙が用意され、池マサト氏のライブがスタート。
ネズミの格好をしており、ネズミの動きで登場し、一切しゃべらず、一点を見つめ歌いだす。ネズミの視点からの歌をうたう。なのにかっこいい。神々しくさえみえる。
これ、小屋の雰囲気も出演者のことも、言葉で伝えるのは難しい。何か人前で発信することをやっている人には、体験してみてほしい場所だとお勧めしたい。
そこで働いてる男子が、「世界の歌小屋」ですからと言ったのも納得する感じだ。
翌日、自分も出た。猛烈に緊張したが、今まで通ってきた道を出す。
自分はこうなんだと、当たり前のことがより、浮き彫りになる場所。
噂には聞いていたが、非常に背筋が伸びる。
翌日、この日だけ晴れた。
高松にいき、ライブ・ツアー最終日。
今までになく空気を泳げた気がした。
高知といい、高松といい、一つのライブに対する感覚が(これは矢野絢子の周りだけかもだが)、非常に文学的な雰囲気を感じた。漠然とだけど70年代の団塊の世代の人達の話で聞いたことのある世界がよぎった。聞き手とやり手がより1対1。
自分としては、今回のツアー、次へいくための、歌ってきたある部分へのけじめのようなものもあったし。四国のお遍路さん的な意味合いもあったようにおもう。
四国を歩くお遍路さん。お大師さんと歩き、気持ちまっすぐに整理するんだろうお遍路さん。自分には必要なタイミングと時間だった。矢野絢子、あのアイポッドから流れた歌のまっすぐは、やっぱりまっすぐだった。自分の何かを叩くようなものと出会い、歌い、ぶつかれたことは、非常にいい経験になった。これからますますの、歌のパワーを信じ、我が道をいき、またどっかで、歌えたらとおもう次第だ。
そして、各場所にて、一つのライブを共につくりあげたり、そこに向けて走りまわってくれたエブリバデ、遠方からも、近くからも足を運んでくれたエブリバデ、ありがとう。
歌吹雪、散ってまた咲くその日まで、ハバナイスエブリデイ、だ。
東京出発。 |
注意。 いつのまにか飛行機、20キロ以上の荷物は 料金発生することになってますぜ。 |
ジール。 ぶれまくってますが、雰囲気だけでも |
フェリーにて。 写真とるとき何かと手をあげる矢野ちん。 |
脱藩道。 龍馬はその時代に、命かけて脱藩した。 その本を読み、簡単に燃えた。十何年前。 今までにない、自分の音楽をつくるきに! 日本の音楽シ-ンからの脱藩じゃきに! 時代つくるきに! |
四万十川。 三年前より、四国に行きたいといってたのは、 四万十川がみたかったから。 んが、今回は見送り。 んがんが、あの看板には四万十川源流と 書いてあり近くに感じた。 |
晴れ。 久々の晴れ。 気持ち良く、一人高知をじいさんのように散歩。 |
高知のたんぼ。 |
高知の裏道。 |
歌小屋。 |
歌小屋2。 |
むじな。 そして矢野絢子氏、この日、面をつけ歌う。 お化け屋敷。 悲しい。 怖い。 闇。 の世界。 それを水を得た魚のようにやるひと。 |
アカリ。 宿にもどり、いろいろいろいろ考えるの図。 |
うどんも四国での目標。 これは達成させてもらった。 そして手をあげる矢野さん。 |
ドナツ。 いただいたドーナツ。 これうめかった。 |
高知の水平線。 龍馬もみた海。 |
お遍路さん。 お遍路さんの衣装。 自分は高知にて心に着た。 |
龍馬空港。 龍馬、36の生涯だったらしいね。 またくるわ。 これからも脱藩道、いくきに。 |
2010年3月30日火曜日
Vol.122「2010年海賊船の春」の巻
春風、ビュンビュン、これでもかって吹き荒れて怖いくらいにサッシの隙間がぴゅーぴゅーと高い音で口笛鳴らした朝方。今年の春は寒暖の差といい、風といい、激しいです。桜はまだかね、いかがおすごしか。
自分でギターを弾いて歌うようになってから今まで、高校時代から今まで、いろんな人と出会って、共に旅したり、作ったりしてきた。現在も、やはり共に船に乗って一緒にこいだり、サポートしてくれるスタッフがいてくれたり、発するものを味わってくれるエブリバデがいてくれたりする。好きでやってるだけってのと、勘違いと不安と、もっといきたいってのと、待っててくれる人がいるってのと、共に夢に向かいたいってのと、いろいろを燃やしながら船が進んでいくってのは、やっぱ喜びを感じるもんです。これから先も、どういう形かこうやって船こいでいけたらと思う次第です。
心や時間、街や人を泳ぎながら旅する海賊船です。だだっぴろい大海原で掟(オキテ)胸にかかげながら、今まで見たことも味わったこともないものを求めて船はゆらゆらといくんです。ある程度じゃすまされない爆発の末の大発見をもとめて。旗にココペリのマーク揺らして。
それぞれが持ち場のセンターを張りながら、パターンはなく、全部新しい、さっぱりとしていて気持ちがいい。やることは同じ、帆を広げ風を溜めて前進していくだけ。
帆に穴あけられても、補修してがんがん前進だ。この世で最初に吹く風を顔面にうけながら、気持ちよく、時々でくわす大発見に心膨らませて、これまでと同じように、ここから先をいくだけだ。
ニックバッカーズ、こっから先を海裂いて前進すべく、ただいま猛烈に製作期間、レコーディングに突入です。勘違い、ただの馬鹿野郎だったとしても、この船でしかみつけられない大発見をともに味わってもらえたらと思う次第です。
自分でギターを弾いて歌うようになってから今まで、高校時代から今まで、いろんな人と出会って、共に旅したり、作ったりしてきた。現在も、やはり共に船に乗って一緒にこいだり、サポートしてくれるスタッフがいてくれたり、発するものを味わってくれるエブリバデがいてくれたりする。好きでやってるだけってのと、勘違いと不安と、もっといきたいってのと、待っててくれる人がいるってのと、共に夢に向かいたいってのと、いろいろを燃やしながら船が進んでいくってのは、やっぱ喜びを感じるもんです。これから先も、どういう形かこうやって船こいでいけたらと思う次第です。
心や時間、街や人を泳ぎながら旅する海賊船です。だだっぴろい大海原で掟(オキテ)胸にかかげながら、今まで見たことも味わったこともないものを求めて船はゆらゆらといくんです。ある程度じゃすまされない爆発の末の大発見をもとめて。旗にココペリのマーク揺らして。
それぞれが持ち場のセンターを張りながら、パターンはなく、全部新しい、さっぱりとしていて気持ちがいい。やることは同じ、帆を広げ風を溜めて前進していくだけ。
帆に穴あけられても、補修してがんがん前進だ。この世で最初に吹く風を顔面にうけながら、気持ちよく、時々でくわす大発見に心膨らませて、これまでと同じように、ここから先をいくだけだ。
ニックバッカーズ、こっから先を海裂いて前進すべく、ただいま猛烈に製作期間、レコーディングに突入です。勘違い、ただの馬鹿野郎だったとしても、この船でしかみつけられない大発見をともに味わってもらえたらと思う次第です。
2010年3月2日火曜日
Vol.121「そういうことって、ある」の巻
春がもうきてる。風はまだ少しとがってるけど、日差しがやわらかくなってきた。
きてる、そこまで。たのむで春、花粉は少なめに。
南極の氷がとけてるなんて聞くと、温暖化大丈夫かよ、なんてビビったりするくせに、冬の冷たい風に吹かれたりすると、“ファック”なんつって身を縮めて「はよ、あったかくなってくれ」なんて願ってたりする。昔に比べると冬の厳しさってなんぼか柔らいできてる気がするんだけど、どうでしょ? ついでに短くもなったような気もしてるんだけど、どうでしょ? 温暖化は怖いけど、寒いのイヤ。タバコは好きだがライトがいい的な。何かこう矛盾というかなんというか。中途半端というかなんというか。
そんなもんだわね。生きてて大半がそうだわね。僕は大半そうして暮らしてる次第です。日々それでも、なんかおもろいことはないかと探してたり、気分を上向かせようと考えたり、なるべくネガティブなものに足をすくわれないように踏んばったりしながら暮らしてるわけです。非常にこれ、綱渡りのような感覚だなぁとおもう時もあるし、そんなの関係ないとぶっ通せるときもある。そんなことの繰り返しです 。
そんな繰り返しの中で時々、生きててよかったとおもえることが、ほんとにまれに本当にある。手放しで心喜んでも、うすら寒くない時、普段でだって、楽しいことはたくさんあるし、おもろいことを繋げて暮らしてるつもりやけど、なにかこう、包まれるっていうか、溢れてとまらん時ってある。
「うまくいかん」「どうしたろう」「つまらん」、不安や恐怖やら、どうしてもでてきてしまうエゴみたいなものが、頭を撫でられ水平線になる。
すべてがそうなる瞬間。許される瞬間というか、許せる瞬間というか。
今までのことも、そこにいる人たちとも、これからのことも、水平線から見る水平線が見えるとき。
うまくいえないことだけど、そんな時、心にはあっても、こぼれてしまいそうで、ありがとうなんて言えない。「アイラブー!」なんつって叫ぶか、ただだまって心膨らませるか、むしろ間逆で、悪態ついて馬鹿話で笑っていたくなるパレードだ。優しいパレード。世の中で言うとこの愛かもな、なんつっておもったりして。
そんなことってある。
ずっとこのまま、この気持ち忘れたくないなぁとおもうのに、時間が経つと忘れてたりして、でも一度上がったギアは下がらない。(勘違いかもしれんけど、そう考えることにした、下がらないギア)。きっと上がったギアの水平線の上でのデコボコだ。ってわけわからんかもしれないけど、そういうことってあるわね。
あの感じをもう一度なんつって、同じことやろうとすると、ベッコベッコにへっこんだりするけど、それもまた繰り返しなんだろね。やってきたことのノウハウやタンスの引き出しのような、手段だけでは味わえないものがそにはあるんです。
イメージはやっぱり、前にも書いたけど、販売機の光にむらがる虫の気持ち。
月の光を体が知ってて、求めた先が販売機。あたってぶつかって落ちて。繰り返してる。だけど月に一回、年に一回、10年に一回、一生に一度かもしれないけど、でも月の光で飛べる時がある。そういう時ってあるね。
でっこぼこの暮らしの中で、何処までもみえる水平線、忘れがちな水平線、感じて生きていたいもんです。幸せと不幸せ、選べと言われたらもちろん幸せのほうがいいけど、幸せっていう響きより、僕は、たった一瞬でも永遠とおもえるような喜びが好きで、知らず知らず、そういう生き方を選んできたのだなぁっておもったりして、やめられない。もっともっとだ。
その場所、時間、人、空間、の中で全部と共鳴できそうな時、ライブにはある。それだけのためにやってきたわけではないけど、ライブってそういうところ、ある。
そうやってギアを上げながら、ステージを上げながら、奇跡的な瞬間を繋いで、繋いで生きれたらとおもう、今日までそして明日からだ。ライブ、生きてる実感。生きてるうちに共鳴しあえたらとおもう次第です。また、ライブで会える日を。
ハバナイススプリング。もう春です。いかがおすごしか。
2010年1月27日水曜日
Vol.120「送りバント」の巻
新年改めまして、あけましておめでとう。
いやはや、あっという間に1月も終盤を迎え、あぁでないこうでないと、日々せわしく過ぎる毎日です。しかも寒かったり暖かかったりと今年の冬は緩急激しく、気の抜けない毎日でもあります。
「バカは風邪ひかない」などときくと、あまり風邪をひかない僕からすると、ひくほうがバカだぜと、まったくそれどころじゃないぜと。いや、うっすらひいてるかもしれないなんて時は、気がつかない作戦、無視力にたよっていたのですが、この冬の緩急をつけたピッチングに対しては、送りバントをしてでもランナーを先に進めなければと、少し用心が必要になってきそうです。いかがおすごしか。風邪なんてひいてられないね。ヨロシク。
さて、気がつけば、なんとなくわかってはいたけれど、この連載、締切を大幅に遅れずれこみ、一か月、すっとばす勢いで遅れていて、この辺で軌道修正せねばとのことで、前回から間を狭め軌道修正にあたっている所存です。ってしっかりやっとけばよかっただけよね。スイマセン。
バイザウェイ、突然ですが、ブログについて。
ブログの存在は昔から噂で聞いていたのですが、自分で検索してまで調べようとはおもえず、どこか知らないところで、みんなつながって楽しんでいるのだなぁくらいにしかおもっていませんでした。
地元に帰った際、友達に「ブログやってるからみてみてよ」と誘ってもらい、「どうやってみんの?」となり、「携帯にいれといてやるわ」となったわけです。東京にもどり一時して思い出し、スターなのに「ポチっと押して携帯代がものすごく高くなったらどうしよう」とか少々ビビりながら覗いたわけです。
すると、その友達の子供の話やら、昔の話やらが書いてあり、ホッコリしたり、笑ったり、グっときてしまったり。携帯の小さな小窓一つから、東京にいて、田舎の友達の日常のささいなドラマに心動かされたりして。ほんのちょっとした子供のことが書かれているだけでも、それぞれにそれぞれたくさんの出来事があるんだなぁとなんだか嬉しくなって、ブログとの距離が急接近したわけです。
んがしかし、自分がやろうなんてまったくおもわなかったところに、スタッフkさんが宣伝の一環としても、自分の記録としても、ブログをやるべきだと勧めてくれたわけです。自分の場合、「歌手」が本分なので、ライブ情報をのせたり、アルバムできましたなど宣伝の役割が大きいですが、写真を撮ってのっけるってのはおもろいです。
写真のうまい下手はわからないけど、携帯のカメーラでしっくりくるのが撮れたりするとしっくりきます。歌にも似て、言葉だけだと言えないことが、メロディーにのると言えるみたいな。写真って、しっくりきたりこなかったりしながらも、自分でも自覚していなかった自分の心象風景を自覚する作業なのかもなぁともおもったりして。
いろんなキッカケをもらいながら、ブログやってみてよかったなぁとおもった次第です。三日坊主の自分がはや1年半、あっというまに続いてるってのがびっくりです。自分にはできないとおもっていたので、やってみたら、やれることってあるんだなぁと実感したりした次第です。
続くといえば、この連載ももう今年で十年目。過去の記事を見たりしない限り、実感はわかないけど、暮らしの中で知らず知らず続けてることってあるんですね。
たくさんの人が関わってくれ、読んでくれ、こうして何かを続けられるってのは幸せなことであります、自分の本分でお返しできたらと思うと同時に、締切はきっちり守る、コツコツ非常に現実的な目標を守ることから始めたいと思う次第です。
軌道修正、このへんで。また来月よりこの「センチメンタルのバカ野郎」でお会いしましょう。またゆっくり。
P.S.今年の花粉、早めの参上らしいとTV情報あり、鼻が出ようがかゆかろうが、認めない作戦、花粉症の方、ぜひおためしあれ。
P.S.2 ここで一句
「ホームラン ランナーためて かっとばせ」
いやはや、あっという間に1月も終盤を迎え、あぁでないこうでないと、日々せわしく過ぎる毎日です。しかも寒かったり暖かかったりと今年の冬は緩急激しく、気の抜けない毎日でもあります。
「バカは風邪ひかない」などときくと、あまり風邪をひかない僕からすると、ひくほうがバカだぜと、まったくそれどころじゃないぜと。いや、うっすらひいてるかもしれないなんて時は、気がつかない作戦、無視力にたよっていたのですが、この冬の緩急をつけたピッチングに対しては、送りバントをしてでもランナーを先に進めなければと、少し用心が必要になってきそうです。いかがおすごしか。風邪なんてひいてられないね。ヨロシク。
さて、気がつけば、なんとなくわかってはいたけれど、この連載、締切を大幅に遅れずれこみ、一か月、すっとばす勢いで遅れていて、この辺で軌道修正せねばとのことで、前回から間を狭め軌道修正にあたっている所存です。ってしっかりやっとけばよかっただけよね。スイマセン。
バイザウェイ、突然ですが、ブログについて。
ブログの存在は昔から噂で聞いていたのですが、自分で検索してまで調べようとはおもえず、どこか知らないところで、みんなつながって楽しんでいるのだなぁくらいにしかおもっていませんでした。
地元に帰った際、友達に「ブログやってるからみてみてよ」と誘ってもらい、「どうやってみんの?」となり、「携帯にいれといてやるわ」となったわけです。東京にもどり一時して思い出し、スターなのに「ポチっと押して携帯代がものすごく高くなったらどうしよう」とか少々ビビりながら覗いたわけです。
すると、その友達の子供の話やら、昔の話やらが書いてあり、ホッコリしたり、笑ったり、グっときてしまったり。携帯の小さな小窓一つから、東京にいて、田舎の友達の日常のささいなドラマに心動かされたりして。ほんのちょっとした子供のことが書かれているだけでも、それぞれにそれぞれたくさんの出来事があるんだなぁとなんだか嬉しくなって、ブログとの距離が急接近したわけです。
んがしかし、自分がやろうなんてまったくおもわなかったところに、スタッフkさんが宣伝の一環としても、自分の記録としても、ブログをやるべきだと勧めてくれたわけです。自分の場合、「歌手」が本分なので、ライブ情報をのせたり、アルバムできましたなど宣伝の役割が大きいですが、写真を撮ってのっけるってのはおもろいです。
写真のうまい下手はわからないけど、携帯のカメーラでしっくりくるのが撮れたりするとしっくりきます。歌にも似て、言葉だけだと言えないことが、メロディーにのると言えるみたいな。写真って、しっくりきたりこなかったりしながらも、自分でも自覚していなかった自分の心象風景を自覚する作業なのかもなぁともおもったりして。
いろんなキッカケをもらいながら、ブログやってみてよかったなぁとおもった次第です。三日坊主の自分がはや1年半、あっというまに続いてるってのがびっくりです。自分にはできないとおもっていたので、やってみたら、やれることってあるんだなぁと実感したりした次第です。
続くといえば、この連載ももう今年で十年目。過去の記事を見たりしない限り、実感はわかないけど、暮らしの中で知らず知らず続けてることってあるんですね。
たくさんの人が関わってくれ、読んでくれ、こうして何かを続けられるってのは幸せなことであります、自分の本分でお返しできたらと思うと同時に、締切はきっちり守る、コツコツ非常に現実的な目標を守ることから始めたいと思う次第です。
軌道修正、このへんで。また来月よりこの「センチメンタルのバカ野郎」でお会いしましょう。またゆっくり。
P.S.今年の花粉、早めの参上らしいとTV情報あり、鼻が出ようがかゆかろうが、認めない作戦、花粉症の方、ぜひおためしあれ。
P.S.2 ここで一句
「ホームラン ランナーためて かっとばせ」
川。 夜、テレビで吹奏楽などを流し、 延々と川の映像が流れるのをみる。 延々見るわけではないが、好きだ。 川ってシングルを作るきっかけもくれた。 真夜中、整理つかない頭でホテルにもどり TVをつけると、流れてた。 気づくと延々みてた。なんか泣けてきた。 今も、なんだか見てしまう。 透明で流れていくもの。 |
2010年1月13日水曜日
Vol.119「2010 正月」の巻
新年あけまして、おめでとう。
さっぶい寒波に襲われながらも、年は明け新しい年がはじまった。
2010年もよろしくお願いします。
今年は正月を実家、宮崎の延岡で迎えた。
二日あたりに帰ったことはあったが、大晦日から正月を実家で迎えたのはもう10年以上ぶりだ。
大晦日にはいつもライブ納めをしていたので、新鮮な気持ちだった。
田舎にいたころから、やっていたであろうに、大晦日は早めに夕飯をすませることを、「年納め」ということを、はずかしながらこのたび知った。
実家で食べた大根の煮つけがうまかった。親戚が持ってきてくれた猪肉がうまかった。うまいもの食って呑んだ。
なんだか、正月っていいなぁとおもった。すっきりするところがある。
ずっと会っていなかった親戚や友達に会ったり、話をしたり、お年玉をあげたり。
知らないうちに、モヤモヤっと散らかっていたものが、整理整頓されてく感じだ。
自分の順番というか、物事の順番というか。勝手に力をもらう。
正月は昔から知ってたけど、代々どうしてこんなに、大袈裟に、かしこまって受け継がれてるのかなぁと思っていたけど、年々その大事さがわかってきたようにもおもったりして。
どこにいようと、誰といようと、誰といなくても、これからも正月には、手を合わせ、気持ちよくすごしたいものだなぁとおもった。大人になったつもりでも、今まで親、親戚、じいちゃん、ばあちゃんがみせてくれた正月に比べると、自分はなんにもできないもどかしさも感じたりして。うかうかしてられんと。いつまでもと。いいやつ、歌、シコシコつくってバンバン歌っていきたいとおもわせてくれた正月、イン宮崎は延岡だ。
この度は、鈍行列車で宮崎まで帰った。長い列車の中、退屈も疲れもあったけど、窓からの景色がそんなことぶっとばしてくれたりもした。夜の黒がうっすらと青紫に滲んできて、ぼんやりと雪景色が浮かんできたときは、夢の中にいるような気分になって、一人静かにテンションがあがった。夜が完全に明けきるまでの不思議な時間、贅沢な時間だった。
河川敷でキャッチボールする親子の風景も、一人で壁にゴムボールを投げて遊んでた少年も、自転車に乗って犬の散歩するじいさんも、バケツに覆いかぶさり腰を振っていた犬も、鈍行列車とはいえ、あっというまにその風景とすれちがっていくので、一瞬のフィルムを観ているようで、そのあとに頭の中で尾をひいて、想いやおもろい気分がめぐってった。
大晦日、九州に入ってから、二両しかない短い列車に乗って。九州ではめずらしく雪が吹雪いていた。
隣に座ったおじさんと、おばあさん、おそらく親子の会話が聞こえてきた。
おじさんがおばあさんに、「あんたのこれからの勝負は、何度正月を迎えられるかなんやからね、歩いたりして、努力せんといかんよ、努力せんと」「うんうん、努力しようとおもっちょるよ、努力するが」。
吹雪いても吹雪いても積もらない雪が窓の外で真横に流れてた。そんなおじさんとおばあさんの会話と景色がずっと残る。
ぐずぐずしてられんなぁともおもった正月だったし、当たり前のことだけど何より、みんな元気でいてくれたらとおもった2010年、正月だった。
2010年今年も自分は、ここに生きてることを、生きて感じることを爆発し、叫び囁き、歌ってライブしていく所存ですので、そこんとこどうぞよろしく。
そこにあんたがいることも、ともにライブできたら嬉しくおもう次第だ。
2010年1月。
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